自在と祓い2011/01/10 00:32

 土曜は久しぶりに古代の例会に。発表は日本霊異記の話で、ある僧が自分は天皇の子として生まれ変わるといって死ぬ。そして桓武天皇の子嵯峨天皇に生まれ変わるのだが、その嵯峨天皇は聖君であるとされるのだが、災害や疫病が起こったり狩猟などの殺生をしているので聖君とは言えないのではないかという反論が述べられる。それに対して、天皇は、すべての所有者であって「自在」なのだから許されるのだ、天災や災害は中国の聖帝の時だって起こっている、と述べて終わる(下巻第39縁)。この天皇が罪を免れる理屈、特に「自在」という理屈に経典などの典拠があると論じていった発表である。

 仏教の論理で天皇がおかす殺生の罪を免れさせるという理屈を説いている、ところが面白いのだが、私などは、むしろ「祓い」の問題なのではないかと思って聞いていた。「大祓の祝詞」は天皇が国の諸々の罪を神々の力によって払うというものだが、当然そこには天皇の罪も入っているはずだ。しかし、「祓い」によって罪は当面は払われるのである。

「日本霊異記」の景戒の論理は、この「祓い」を、仏教の理屈を用いて述べているようなものである。そこが面白かった。

 今、管首相がみんなからさんざんに悪口を言われている。こんな首相がいるから日本はだめになる、といわれている。が、誰が首相をやっても今の日本の陥っている状況を改善する名案がないことはこれまた誰もわかっている。つまり、どうしうよもないフラストレーションのはけ口としてみんな管首相の悪口を言っているというわけだ。本来、首相というのはそういう役割なのでもあるから、それなりの仕事はしていると言うべきか。

 問題は天皇なのだが、例えば中国の皇帝は不満のはけ口の対象になれば、反乱が起こって交代させられる。そのことを当然とする易姓革命という思想がある。が、この思想は日本には入ってこなかった。入って来たら、天皇はも国に禍が起こったときにみんなからあんたのせいだと言われて交代しなきゃならなくなるからである。

 日本の律令思想は、天皇が国の厄に責任を持つという思想そのものを回避していたはずが、日本霊異記でまともにそのことをあげつらってしまったのである。景戒は、天皇は自在だから何をやってもいいのだ、という理屈を述べて天皇を讃美するが、こういう理屈を述べること自体、実は、余計なことである。ある意味でうまく触れないでいたことに触れてしまったからである。

 この理屈を読んだ人々は、それじゃ、この俺たちの不満を引き受けてくれるのは誰なの、と思うに違いない。天皇ってずるい!と思うかも知れない。

 さて、天皇が引き受けないのならそれじゃいったい誰がみんなの不満を引き受けるのか。どうも、日本では引き受けなくてもいいみたいなのである。というのは「祓い」があるから。というのがここで述べたいことだ。罪、穢れ、災いは「祓い」で当面は乗り切る、というのが日本の対処法である。罪、災いは、自然(神々)という外部に流されることでとりあえず消える。つまり責任をとるのは自然という外部なのである。(つまり管首相は祓いをすればいいという理屈になるが、これはあくまで古代の話。が、やってみる手はある)

 それに対して、仏教は、罪を犯すのも、その責任を負うのも人間である、という論理でせまる。だから、日本霊異記では「祓い」という日本の一方の文化が語られることはない。

 天皇は自在だから罪はないという理屈は、ちょつと無理があるなというのが発表を聞いての印象。発表に無理があるということではなく、景戒の理屈に無理がある、ということである。その無理をあえて書かなきゃいけないところに、実は、考えるべき問題があるという気がするのだが、何となくそんなことを考えながら発表を聞いていた。

 日曜、ようやく、「益田勝実の仕事」全五巻を読了。これが私の正月休みのノルマなので、ほつとしたというところだ。五巻目は「国語教育論集成」で、益田勝実が実に優れた教育者であったということがよくわかった。これを読むと、私なぞ、実にいい加減な教育者に見えてきて恥ずかしくなった。

                         神様リセットお願い!初詣

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