孤族の国2010/12/27 02:04

 今日、山小屋から帰る。向こうはさすがに寒かった。一昨日から昨日にかけてのクリスマス寒波で、山が真っ白になった。大雪ではなかったが、根雪にはなった。昨日は一日外は零下で、一日中薪ストーブを焚いていた。

 別荘地には鹿もよく来るのだが、夕方かなり大きい雄鹿と出会った。車からだが目が合った。立派な角をしていて、あわてて逃げる様子もない。別荘地の人間は鹿に害を加えないのを知っている、という感じである。

 半日ほど薪割りをしたが、それだけで体中が痛くなり、普段身体をつかっていないことの無理がこういうときに出る。一年の疲れが出たと言うことか、本を読むつもりでいたが、すぐに眠くなり、そのまま寝入ってしまう。そういう状態でほとんど過ごした。一年の疲れが出たということだろう。

 今年はどういう年だったのだろうか。いつもながら忙しく働いた一年だった気がするが、いつもながら、反省することの多い一年でもある。何人かの友人知人を見送ったが、人の生というものの短さを実感した年でもあった。それはまたわがことのごとく、である。むろん、だからこそ、きちんと仕事をしなければならないと思うのだが、そう思い通りにいかないのもまた人生である。

 今日の朝日新聞の一面の見出しは「孤族の国の私たち」であった。ずいぶんと思い切った見出しである。地域や家族の絆の崩壊によって孤独に死んでいくいわゆる「行旅死亡人」を扱った記事であるが、かつて「無縁社会」というNHKの特集で取り上げたテーマが、「孤族の国」という見出しで、この一年の総括として取り上げられたということだ。

 幾たびも語られてきた現代の「行旅死亡人」についての番組や記事を見て思うことは、もうどうでもいいや、と簡単に見切りをつけたのではないかということだ。人がたくましく必死に生きようとするのは、自分のためではなく人のためである。たぶん断言していいと思う。子供のためとか家族のためとか、とにかくそういう動機で人はしぶとく生きようとするが、自分のためだけにしぶとく生きようとはしないはずだ。

 たぶん、どこかの行政の窓口に行って相談するとか、とにかくこのままでは生きて行けないからと誰かに訴えるとか、恥も外聞もなく助けを求めることが全く不可能であるような社会ではない。多くのケースが何故かそういう機会を選択せずに孤独死を選んでいる様な気がするのは、どこかでもういいや、と思ってしまうところがあったのではないか。

 そこには以前書いた「さようなら」という日本人のメンタリティも作用している気はするが、いずれにしろ、「孤族」も「無縁」も出家する時に意図的に選択するならともかく、日常の生活では避けるべきものである。それを避けるために、生活とか社会というものの仕組みはなりたっているはずだからだ。

 その仕組みが一部機能しなくなってきたということが、人間の生死にかかわる問題として露呈してきた、ということなのだろう。生きることへのしぶとさを回復するのは、やはり、関係というものの力なのだというシンプルな答えを、改めて噛みしめるべきなのかも知れない。

                    朝寒し孤族の国で顔洗う