誤解の自由2010/12/06 23:31

 土日は先週と同様山小屋へ。今回は、冬用のタイヤ交換や、薪置き場作りと冬の準備である。スタッドレスタイヤは山小屋に保管してあるため、交換するためには山小屋へ行かなくてはならないのである。また、薪を置くスペースがないために、薪の保管スペースを一日がかりでこしらえた。ベランダを解体した折りの廃材が残っているので、使えそうな木材を選んで作った。みてくれは良くないが材料費がかかっていないのでよしとしなくてはである。

 一方、短歌時評の締め切りが迫っていて、日曜は東京に戻り、そちらの原稿を何とか書き上げて送る。時評もそろそろネタ切れであるが、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と斉藤斎藤(こういう名前の歌人です)の文章を使って、短歌時評らしく整えました。

 書評一本と、学会誌の原稿も今月中には書かなくてはならないのであるが、まだ手をつけていない。たぶん?なんとかなるだろうと思うのだが。

 今日は授業だが、合間を縫って内田樹『先生はえらい』を読む。実は、AO入試で合格した受験生の何人かに、本を送って感想を書いてもらつたりレポートを書いてもらい、添削しようと考えているのだが、その候補作の本、といっても高校生の向けの新書なのだが、何冊かあたったなかで、結局内田樹の本がいいのではということで読んでみたのである。

 まず、文章が難しくなく、最後まで興味を持って読めること。文章入門のような、味気ない文章ばかりの本を一冊読めと言うのは、あまりためにならないし、効果もない。だから入門書のたぐいはやめて、なにかを考えさせるという本に絞った。それで見つけたのが『先生はえらい』である。題名に驚くが、中身はコミュニケーション論である。

 内田は、コミュニケーションとは、正確に伝わらないことを構造的な本質としていると述べる。だから、コミュニケーションは成立するし面白いのだという。それを「誤解の自由」と呼ぶ(正確には誤解の幅と言っているが、誤読の自由という言い方もしているので、此処は誤読して誤解の自由とした)。正確に伝わるものであれば、相手にわかったと言われた時点で、そのコミュニケーションはおしまいである。が、わかるなんてことがないのがコミュニケーションであるという。それは、先生も同じなのだという。学生にとって、この先生は言っていることがよくわからないけれど、きっと何かを持っているかもしれないと誤解されることで、先生は先生として成立するのであって、それはコミュニケーションと同じことだというのである。

 自動車教習所の先生は生徒からあまり尊敬されないし同窓会も謝恩会もひらくことはない。それは、教習所では、教える事柄が誤解されないようになっているからである。そこには誤解の自由がない。従って教習所の先生に生徒が運転技術以外の何かを、先生の意図とは別に教わるということがない。だが、学校の先生は、教えるべきことがら(最近ではシラバスに書いてある)とは別の、何かを学生の側が勝手に了解し教わってしまうということがある。そういうのが、本来の先生と学生の関係というものなのだという。

 例えばF1のレーサーが運転教習所の先生と同じ内容を教えたとしよう。F1レーサーは、たぶん、基礎を馬鹿にしてはいけないよ、というくらいで、あとは自分で練習しろ、といい加減かもしれない、しかし、こっちの方が教えられことは多いのだと内田は言う。誤解の自由がそこにはあるからである。

 平明な口語調の文書なのでたぶんこれなら最後まで読むことができるし、コミュニケーションや、学ぶとはなんだろうと少しは考えるに違いない。私も考えさせられた。

                      なんていうか誤解ばかりさ冬の吾

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2010/12/06/5562659/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。