関係という物語2010/10/08 00:08

 授業で久しぶりに樋口一葉を読んでいるる。「文学を歩く」という授業で、樋口一葉の「たけくらべ」をみんなで読むのと、ゆかりの地を歩いて来ようという授業である。まずは、NHKで以前に放送した樋口一葉のドラマを見ている。一葉役は大原麗子で、ちょっと年齢に違和感があるが、まあまあ引き込まれる。年譜で24歳の生涯を説明しただけではわかりにくいのだが、さすがドラマだとすっと入っていく。ただ、ドラマには解釈がはいっているので、危ういところはある。

 一葉が恋愛感情を抱いた半井桃水の役は石坂浩二である。実物の写真に似ていなくはないが、こちらは妙に優しい好人物。ほんとうだろうかという疑念は残る。兄の虎次郎は蟹江敬三。陶工の職人になった人物だが、職人らしさをうまく演じていた。

 さて、学生に「たけくらべ」を朗読してもらおうと思っているのだが、ほとんど古文である原文が読めるのかどうか不安である。幸田弘子の朗読を聞かせながら、ということになるだろうか。今年初めて受け持つ授業だが、実は、この授業今年度で廃止。来年から「アニメの物語学」を代わりに始める。ところが、今年で終わりだというのに、意外に受講生が集まった。こんなに集まるなら残しておけばよかった。

 隙間読書で読んでいた、マイケル・サンデルの「これから正義の話をしよう」を読了。けっこう面白かった。サンデルの立場は、割合複雑である。その基本的な思想のよりどころはカントであるが、それだけではない。人が正義を実行するのは、その人の本性だとするのがカントの立場である。つまりカントの立場とは、正義を実行するとき、功利主義やある道徳的な立場に左右されるものではないとする。ただ、サンデルはカントの立場では、現実に生起する問題に対処できないと言う。例えば、二人の子供がおぼれているとする。一人は、自分の子供、もう一人は他人。この場合、子供を優先的に助けたとすれば、それは親子という感情を判断に絡めたという意味でカント的な立場では正義ではないとされる。がサンデルは、これはおかしいと言う。

 人間のアイデンティティは、実は、様々な関係の中で作られる。それを物語と述べている。従って、人間がその物語から逃れられない以上、正義という判断はその物語を切り離すことはできないというのである。ただ、それはカントを否定するということではなく、カント的立場を踏まえた上で、人の正義の判断は関係の物語にある程度縛られるのはやむを得ないということである。だから自分の子供を優先的に助けることはある意味で当然であるという。むろん、行き過ぎれば、家族や国家という関係の物語を優先させ、冷静な判断はできなくなる。そこまで優先しろとは言っていない。ただ、人間から、関係の物語を排除して、正義を判断することは無理だと言っているのである。 その意味では、家族愛や、共同体への愛、国家愛というのを必ずしも排除すべきではない、という。

 この論理なかなか現実的でよろしいと思う。ただ、どこかで懐かしいような論理だとも思っていたが、要するに、これって、吉本隆明の「関係の絶対性」というやつではないか。人は関係から逃れることはできない。思想は、人と人との関係の中で作られていくことがある。その関係の絶対性を、肯定的に人間のアイデンティティとして評価した上で、その関係の絶対性と時に矛盾するような正義への判断をどう下すか、それを究極の選択のような例を出しながら論じていく。

 カントが言うような人間の本性としての理性を信じ、かつ、関係の絶対性も排除しないという論理の組み立て方は、ある意味、いいとこ取りの思想だが、逆に、それが矛盾を孕んでいるという意味では、けっこう難しい思想だとも言える。が、案外生活の現場では、誰もが些細なことでこういう判断をけっこう繰り返しているのではないか。そうも言える気がする、とすれば、思想というより、これは「知恵」の問題だとも言えるのではないか。
 
       物語とらわれながら秋の風