GPAレポート2010/10/02 00:44

 何というか、地獄のようなハードの一週間がようやく終わった…わけではないが、まあ来週は少しは楽だろうと思うが。

 紀要原稿を書き終え、山のような雑務をこなし、会議が目白押しで、しかも授業が始まった週で、そして、アジア民族文化学会の秋の大会の案内の発送と、こんなに仕事をしていいのか、というくらいに仕事をした。

 会議で大変だったのは、いわゆるFDの委員会で、GPAについて夏休みにレポートを書いてこいという宿題を出されていて、それをすっかり忘れていて、会議の前の晩に慌ててまとめた。GPAは、グレード・ポイント・アベレージの略。学生の成績評価を五段階(4・3・2・1・0)に分け、履修した単位の平均値の数値である。4が最高で、2.5が真ん中ということになる。2以下だと成績不良というレッテルが貼られる。2以下だと、卒業できなかったり、もっと下がると退学勧告されるところもある。

 この評価制度を文科省が推奨していて、全国の大学でも取り入れているところが多い。導入にどんな意味があるのかというと、学生の成績のレベルを一目瞭然にして、成績不良の学生を指導して、大学の教育の質を上げようという狙いである。つまり、日本の大学の教育の質が悪いのは、成績評価がいいかげんだからで、かつては単位を取って卒業すればいいんだというように教員も学生も思っていたが、国際競争の時代ではそんなんではだめだ、と文科省が言い出したというわけである。GPAは大学間の競争の激しいアメリカで発達した制度で、だいたい日本はアメリカで流行ったものは必ずまねをする。

 大学は、学生の成績をあげる努力をせよ、学生も成績があがるように勉強せよ、というように意識改革をするためにこのGPAがある、というわけだ。これも時代の流れで導入はやむを得ないのかなあと思いつつ、なんか抵抗がないわけでもない。

 学生には悪い成績を取る自由があるのではないか。その自由をこのGPAは奪ってしまう。それが心配である。つまりだ、単位が取れるぎりぎりの最低ライン程度の成績で、自由な学生生活を有効に使うという選択があってもいいはずである。授業は余り出ずに、政治活動、ボランティア、演劇や音楽とかに力を注ぐ、そういう自由を与えてくれる役割を大学は持っている筈である。ところが、GPAは単位の平均的な成績の数値であるから、そういう数値に表れない学生の活動は排除する。その結果、大学そのものを息苦しくするのではないかと、その委員会でみんなのレポートを聞きながら思った。

 私のレポートも、とにかく、GPAとは何かといったただ調べたことを書いただけのもので、あまり深く考えたものではなかったのだが、他の人の詳細なレポートを聞くに及んで、これはあんまり真面目に導入しない方がいいかな、と思うようになった。

 今は大学も全入時代で、自由が大学のいいところだ、なんて言えるのは優秀な学生の集まる一部の一流校だという声が帰ってこよう。確かにそういう面もある。多くの大学では、学生一人一人を懇切丁寧に面倒をみなければならないのが実情である。そうであってもやはり危惧するのは、排除の思考がこの制度には強いからだ。単位を取っていても、全体的な成績が悪ければ除籍されかねない制度なのである。当然、学生はいい加減な授業や成績評価に敏感になる。いい加減な教員も大変である。ちょっといいかげんな私も、たぶん大変になる。導入する側の立場にいる私なのであるが、どうも気が重い。こんなことを考えさせられたこともあって、この一週間はきつかった。

                        空高し地べた這うわれらの空