久しぶりの研究会2010/09/19 10:05

 昨日はAO入試の面談と研究会。まだ夏期休暇だが、入試はすでに始まっている。今のところ応募者は昨年並み。志願者が増えてくれるといいのだが、そう簡単にはいかない。

 研究会は、中国少数民族白族の「山歌碑」解読についてやっている。私はただ参加しているだけだが、10月大会の発表に向けて今資料などを準備中だ。文字を持たない白族が、漢字を用いて自分たちの歌を記した。それが「山歌碑」である。明の時代に造られたものだが、何故注目されるのかというと、日本の万葉の時代もある意味で同じだからだ。自前の文字をもたない民族が、外国の漢字という文字で自分たちの歌を記す。つまり、日本の苦労と同じ苦労を白族もしているのである。その意味で貴重なのである。

 私の勤め先で研究会を行ったのだが、別の学会の企画会議が同じフロアで行われていた。実は私はそちらにも顔を出すべきなのだが、それなりに古手になった私の出番はないと思っているので、参加は見合わせた。来年の企画を決めるそうだが、良い企画が決まればいいのだが。

 紀要論文は結局「遠野物語」で書くことに。今書いている最中。月末までに40枚近く書かなきゃいけない。何年かこれも研究会をしているのだが、まだ自分なりにどう読んでいいのか迷っている。そこで、「神隠し譚」を取り上げることにした。実は、遠野物語や遠野物語拾遺には神隠しの話が多い。しかも、細かく見ていくと様々なバージョンがある。その差異がなかなか面白いのである。

 例えば、神隠しにあった女が何年かたって帰ってくるという話がある。あるいは、猟師が山の中で神隠しにあった女に出会うという話がある。こちらは、異人の妻になっているというのが多い。あるいは、ただ、山をさまよう女に出会ったという話もある。帰ってきた女は、家人に会いたかったと語る。山であった女もそのように語る場合もあり、また誰にも言うなと語る場合もある。一方、ただ山で山姥の様な女に出会うという話もあるが、ある意味でこれも神隠し譚の続きのような話である。何故こんなに神隠し譚には様々な違いがあるのか、これを整理して分析していけばおもしろいのではないか、というのが、今やっていることで、うまくいくかどうかはまだわからない。

 暑さも大分おさまってきて、ようやく人心地といったところである。研究会の帰り飲み会ということになり、そのあと神保町のいつものカフェバーに行ったら、企画会議の連中もいた。彼らと最近のアニメのことなど話し帰途につく。私は来年「アニメの物語学」という講座をやらなければならないので、詳しそうな人に会うと話をすることにしている。これもどうなることやらである。

                        秋の夜のわが更新に手間取りぬ