ついサッカーを見てしまう2010/06/16 10:36

 今週は授業の父母参観の週で、教員の参観もある。私は他の教員の参観が義務づけられていて、いくつか見てまわった。先生にとっては歓迎されない人もいるだろうが、こっちも仕事なので見ざるを得ない。他学部では、教員全員に参観することを義務づけたという。私の学科はそこまではしないが、いずれそうなるだろう。

 教室に入る時には気が引けるが、なかに入って聞き始めると、不思議に引き込まれる。学生時代を思い起こすというのもあるが、こういうやり方をやっているのだという同業者ならではの興味もある。小説家であるM先生の創作の授業を覗いたが、同じテーマで、日記、エッセイ、小説とかき分けるということをやっていた。自分がどういう書き方に適しているか、見極めさせる方法だという。書いて見ませんかとすすめられたが、断って教室を出た。

 特に私の学科の授業を中心に見て歩いた。学科長をしていたころの癖で、やはり、どんな授業をしているのか気になるのである。一部しかみていないが、みんな熱心で、わたしなどより授業がうまい。特に、授業中、学生との距離をなくそうとけっこう工夫している。授業の準備もしっかりとしている。私ももっとやり方を工夫しないといけないなあと反省することばかりである。

 今週は、課外講習で万葉集の講座があり、その予習でかなり時間を取られている。普通の授業の倍の準備時間をかけている。というのも、歌の解釈鑑賞が中心だから、諸説や資料の下調べが必須だからだ。受講者は23名で、ほとんどが私と同年代。みなさん熱心である。さすがに手を抜けない。ただ、万葉集は私の本業なのだが、正課の授業では持っていない。いろいろ事情があって、私は正課では専門の授業を持つ余裕がないのである。だから、民俗学の授業を持っている。事情というのは、一つには、日本文学の受講者が少なくなってきているのに、教員の数は少なくない、という事情のことである。これはどこの大学でも同じことで、とすると、文学以外の科目を担当できる器用なものが文学以外の授業をどうしても持つようになる。私がそうだというわけだ。

 そういうわけで、課外講習は、私にとって専門の授業が出来、しかも、万葉集を丁寧に読んでいくという私にとっての勉強の機会でもある。いやがうえにも力が入るのだ。おかげさまでこの講座三年目だが、リピーターがほとんどで、毎年受講してくれている。ありがたいことである。巻1の最初から読み始めて三年目に巻3に入ったばかりだ。終わるまでには10年以上はかかりそうなのだが、何人が残っているだろうか。みんなけっこう年配だし。

 今度の土曜日に学会の大会があり、その準備がある。7月に締め切りの原稿があることを忘れていて、それを知ってから、また気が重くなった。つい夜にワールドカップのサッカーを見てしまう。これが良くない。つい夢中になってみてしまう。いつも思うが、サッカーのゴールは、必然と偶然の実に巧みな組み合わせだなと思う。本田のゴールだって、左足で止めたボールが右膝に偶然に当たらなかったら無かったゴールだ。だからはらはらするのだろう。睡眠時間がすくなくなるが、やはりどうしても見てしまう。

                    六月や天を仰ぎしストライカー