人見知りの話2010/04/21 23:27

 今日は午後からの出校だったので、午前中野川沿いを歩いた。二子玉川の岡本民家園まで歩く。約50分。今日は暑かったせいかかなり汗ばむ。もう少し足を伸ばすと静嘉堂文庫である。ここには国宝の耀変天目茶碗がある。確か昔観に行った記憶があるのだがよく覚えていない。岡本民家園あたりは、国分寺崖線の終わりあたりとなるのだろう。緑が多く良いところである。桜はほぼ散ったが八重桜が咲いているし、アメリカハナミズキが咲き出した。藤の花も咲き出している。花の季節になったなと感じさせる。

 久しぶりに汗をかくような運動をした。昼柿の葉寿司を食べる。同じマンションのYさんの奥さんからいただいたという。Yさんは著名な翻訳家。翻訳不可能と言われていたジョイスを翻訳した人である。私はまだこの人を見たことはない。生活スタイルがまったく違うらしく、マンションの人もめったに見かけないという。奥さんはマンションの会計をやっているので用事で訪問したりすることがあり、話したことがある。きさくな感じの人だという。

 今日の授業は基礎ゼミナールである。他の授業は受講人数が少ないので結局この授業が一番多い。前回、自己紹介をしてもらったので、その感想を話す。自分を人見知りだといった人が多かった。人見知りは、内と外とのあいだのハードルが高く、それを越えるのに 心理的負荷が高い人のこと。このハードルを越える準備にどこかしら負担を感じるから、他人と話すのがおっくうになったり、見知らぬ人の前に出ると恥ずかしいと思う。私もそうである。こういう性格の人は、語学の習得には向かない。が、文章を書いたり本を読んだり思索にふけるのには向いている。だから君たちは、語学は苦手(このクラスは心理学コース、日本語・日本文学コースの学生で英語コースの学生はいない)かもしれないが、別な能力があるのだと語る。

 私の自己紹介だと言って、28歳で大学の二部に入り直し勤労学生だったことなどを話した。二部の話をし、大学の二部にはいろんな年齢の人がいる。社会に出てから勉強したくて入って来た人たちで、このことは君たちの年齢ですべてが決まってしまうということではなく、その気になれば何歳からでも勉強できるし、いくらでもリセット出来るということだと、語る。これもいつもの語りである。

 へとへとに疲れて帰って、そういえば明日某学会の会合があることを思い出し、頼まれていた査読の論文を読む。不可である。要の論理が強引すぎる。用例を丁寧に読みこなして導き出すという基本が踏まえられていない。新しい読みを導かなくてはというあせりが、 こう読んだら面白いという思いつきを、検証する手間を惜しんで論の骨子にしてしまう。私などもよくやることで反省することが多い。それでも、私などは自分の論理のおかしさに気づく力はまだある。この論の欠点はこの力がないことである。まだ若いひとだが、やはり、投稿する前に誰かに読んでもらうということは必要である。

                          春の日ざし歩いていて汗ばむ