定型のシンポジウム終わる2010/04/10 23:51

 今日は学会のシンポジウムで、穂村弘とともに定型や短歌の話をした。さすがに疲れた。懇親会も途中で退席。飲み会は最後までつきあうほうなのだがこの所それだけの体力がなくなってきた。

 疲れたのは忙しかったからで、昨日はアジア民族文化学会の機関誌の発送の仕事で朝から作業をしていた。その準備と、シンポジウムの準備で、今週はやや睡眠不足気味が続いた。夕方五時にシンポジウムが終わったら、六時から会議だと学校から呼び出しである。おい嘘だろ!と叫びはしなかったが、仕方なく会議へ。会議の中身は、受講人数の少ない授業を開くか閉じるかを決めるというもの。なんと私の授業が二つも入っていた。最近人気がないのだ。むろん今年定員割れしたのと、日本文学のコースを選ぶ学生ががた減りしたのが原因である。

 受講人数が少なくて、閉鎖対象になる授業は私の属する学科が一番多かった。これを全部閉鎖するとカリキュラムが有名無実になる。結論として、極端に少ないのは別にして閉鎖しないということになった。つまり私の二つの授業は開かれることになった。よかったのかよくなかったのか。会議が終わってから、懇親会へ。みんな元気が良い。元気のないのは私だけのようだ。

 シンポジウムはまあまあうまくいったのではないか。ある研究テーマについての議論ではなく、定型という抽象的なことを、歌人と話をするのだから、学問的な綿密性や実証性から一番遠いところでのやりとりになる。しかも、私は、今日は、普遍性や整合性のある話はしないと断ってから話をした。

 穂村氏は、短歌実作における添削の例をあげながら、歌とはこういうものだと語っていく。私は、定型の様々な論じ方を試みるという内容。

 こういうやりとりは、アナロジカルな語り方の応酬になる。それをおもしろがる人と、新しい論理や発見が無いと怒る人とに分かれる。たぶんおもしろがれる人には良かったのではないか。そう思いたい。

 とりあえず一つをクリアしたので、一息ついたところだ。二週間後に御柱のシンポジウムがある。これからその準備である。来週から授業も始まる。二つの授業を人数が少ないので(それぞれ8名と9名。10名以下は閉鎖の対象となる)閉鎖してくれないか、と念じていたが、そうならなかった。来週からどうなることやらである。

 庭と隣の公園の桜がまだ散りきらないでいる。散った桜が地面に散り敷いてなかなか美しい。

      四月説明出来ぬこと考える