台湾と折口と残虐性2010/03/01 01:27

 今日は日曜だが研究会。2月だがほぼ毎日出校。雑務と原稿と研究会で、休む暇なし。基礎ゼミのテキスト、文章表現のテキストと、私がとりまとめ、また改訂版の執筆を行っている。月曜に印刷に回さなきゃならないので、大変である。

 今日は、アジア民族文化学会関係の研究会だが、関口氏を招いて、氏のA氏に対する批判の論について語ってもらった。彼の話によると、A氏の本が出たときに、こういう本は批判されてすぐに絶版になるのではないかと思っていたそうだ。ところが、賞をもらい、しかも、折口研究者は何も言わない。こんなことがあっていいのか、折口研究者が何も言わないのなら、門外漢の私が書かなきゃということで書いたという。

 本人には送ったのかというと送っていないという。ただ、折口の弟子で歌人の岡野さんには送ったが、好意的な反応が返ってきて、岡野さんは折口の研究会のときに発表者のA氏にこの論文を読みなさいと、本人に渡したそうだ。だから、本人も読んでいるだろうという。なかなか、この論あちこちで話題になっているようだ。

 ハイデッガー研究者がなぜ折口なのかと聞いたところ、ハイデッガーはギリシアの古代に関心を持っていて、プラトニズム以前の非合理主義的な世界を抱え込んでいるのだという。それで、自分は日本の古代をやらなければならないと考え、それなら折口を読み始めたという。そこで出会ったのが、A氏の本で、これは違う、基礎的な文献研究もないし、自分の思い込みの側に、強引に結論を持って行くやり方反発を覚え、それで、台湾の蛮族調査研究を読み込んだということだ。

 折口についてはあまり述べていないが、と質問したが、今回は序であって、これから取り組みたいと言っていた。私は折口が台湾の蛮族調査報告を誤読しているということはないのか、と聞いた。問題なのは、A氏が折口をきちんと読んでいないことだ、と言う。たとえばそれを「残虐性」というキーワードの問題として語った。たとえば万葉人は、英雄としての王が象徴的に持つ残虐性を失い、言わば幻想として疎外する(彼は物語というが)ことで、歌が成立していると折口は言っているはずで、A氏のように台湾の首狩り残虐性と同次元で万葉人には残虐性があるというように語るのは、折口の誤読だという。正確に聞き取ったかどうか自信はないのだが、このようなことを言っていた。

 残虐性と言う言葉は、私も気になっていて、首狩りそれ自体は当事者にとって残虐ではない。多くの供儀儀礼の一つであって、ただ、人間が対象になるために、通過儀礼といった意味付与がされる。それを外部の人間が見るから残虐性という評価がなされる。折口は、フレーザーの王殺し(共同体の死と再生)のことや、英雄の持つ王であるが故の残虐性(エロス)を魂の死と再生の問題として語っているはずで、一般的な供犠のレベルでの残酷さとは違う次元のことのはずだ。ところが、A氏の本は、そこの区別がなく、折口の述べる残虐性が、外部から見てなんて残酷なことをしているんだろう、という次元のことと同じように語られている。私もそこ所に違和感はもっていたので、関口さんの話に納得はした。

 関口氏によると、どうもA氏は、折口全集を丹念に読んでいないのではないかという。良く引かれるのは、対談ばかりで、確かに分かりやすいのだろうが、誤読の危険性もあるという。この指摘、私にもあてはまりそうで、恐縮した次第である。

 ただ、関口氏との話で改めて気づいたのは、マレビトの曖昧さであり、折口的な、神と巫女との、暴力的でエロス的な関係の描き方というのは、部族王的な、権力の発生という問題が無ければ成立しないのではないかということであった。

 権力の発生の起源を折口は神と人との暴力的な関係において解釈しようとしたと言ってもよい。言い換えれば、権力の発生が特にないところでの神と人との関係は、折口の興味の範囲にはない。が、実は、柳田はそこに、民俗学の世界を求めようとしていた。そこに折口と柳田の違いがある。だから、折口は、神は王にスライドするところがあって、その意味で、王を生まなかった台湾原住民の閉じられた世界の報告書に対して、折口がどの程度の影響を受けたかは、ある程度想像できる。逆に、A氏は折口の神の世界と台湾原住民の世界を同一次元であるかのように語るのであるから、関口氏の言うように、折口が読めていないと、言われても仕方がないのかなと思う。ただ、一方で、それなら、権力の発生までいかない古代の、神と人との関係には、折口の言う暴力性やエロスは本当にないのか、という疑問にかられる。A氏が台湾原住民の首狩りを折口論として展開するなら、そこを問題にするべきだったのではないか。

 神と人との関係には命のやりとりがある。それは王(権力)を生み出す以前から、ずっとそうだったはずだ。なぜなら、神と人との間には断絶があるからで、その断絶を越えるには、命のやりとりを必要とするほどの「命がけの飛躍」が必要だからだ。そこまで、問題を抽象化できれば、A氏は、台湾の首狩りを通して折口を相対化できたののではないかと思う。そうであれば、誤読ではなく、Tさんの言う創造的誤読になったのになあと思うのだ。

 K氏とA氏がやりあったイタメシ屋で飲み会をひらき、そのまま関口さんと地下鉄に乗ろうとしたら、後ろから声がかかり、振り返ると、歴史家で「食文化史」の権威Hさんである。ひさしぶりである。彼とは同郷(同じ町内に住んでいた)年齢も同じ、同じ研究会にいて、中国の調査にも一緒に行った。

 彼はここのところ、台湾に何回も通っているというので、関口さんを紹介し、関口さんはHさんに論文を渡した。この論文、こうやって人から人に広がっていく。Aさんも大変だろうなと思う。

人と人とはつながっている三月