ぐじゃぐじゃな時代に…2010/02/24 00:26

 昨日はある学会の運営委員会である。委員のメンバーと委員会終了後飲み会になった。この委員会、いろんな専門分野の人たちが集まってくるので、話を聞いているとおもしろい。委員長のHさんが挑発的に議論をふっかけるものだから、酒の酔いもあって、けっこういろんな議論が飛び交う。

 そういえば私もかつてはこういう場では中心的な存在だったなあ、と懐かしく回顧。今はどういうわけか聞き役に回ってしまっている。一つは、こういう議論は、現代の社会や思想の状況に疎いと参加出来ない。それから、頭が早く回転しないと議論をリード出来ない。私の場合、今は頭もどうもそんなに回転しないし(歳をとったというよりもこういう場に久しく出ていないせいだと思いたい)、現代の思想などにもそんなに精通していない。

 ただ、こういっては何だが、議論を聞いている限り、時代を見る目はそんなに鈍ってはいないとは感じた。別の言い方をすれば、自分の立ち位置がイデオロギーを別にすれば明確なものなど誰もいないということなのだ。それをわきまえたうえで、そのことに怖じけずに我が道を行けるかが、たぶん、大事なことなのだろう。

 近代文学の研究のことが話題になり、近代の連中が、今は近代は方法論がぐじゃぐじゃで何も見えない状況だ、と言っていた。ポストコロニアルも、カルスタも、もう誰も魅力を感じないらしい。この二つの方法論は一世を風靡したが、寿命は短かったようだ。結局我が道を行くということしかないということのようだ。

 問題の所在はわかっている。文学研究の方法論が、あまりにも国家に向かいすぎたのだ。国家という権力やシステムを暴くということに熱中したあまりに、自分がどっぷりつかつている資本主義の、国家をも相対化してしまう俗的なすさまじい欲望に、いつのまにかあらがう術を無くしてしまったのだ。今、国家は、金融資本主義をコントロールしようと必死になっている。また、その欲望から国民を守るために、互酬的なシステムを構築しようとしている。つまり、福祉国家にならんとてしている。国家自体が揺れ動いているのである。保守主義的な国家主義も、中国を敵視することで愛国を訴えるが、中国の経済なしにやっていけないことを知っている人々には見向きもされない。

 国家に抗うという姿勢の鮮明だったポストコロニアルもカルスタも、国家をも翻弄してしまった現代の金融資本主義の嵐には、何を言うことも出来ない。むしろ、多くの研究者は、事業仕分けで減らされるアカデミズムの予算を復活させないと日本は駄目になると、抗っていた国家に金を出せといわんばかりの声明に荷担し、その減らされた予算が、経済的に恵まれない層への福祉に回されることに想いをいたさない。

 国家に抗してもリアリティがない。資本主義に抗う術も、資本主義以降の展望もない。これが今の思想を取り巻く現状である。ぐじゃぐじゃになるのは当たり前である。抗するに値する確固たる神の如き秩序などないのである。だから、脱構築も成立しない。脱、という姿勢そのものがすでになりたたないのである。

 こう考えると、すべて虚無なのか、と勘違いする人もいよう。が、そうではない。それでも、多くの人は充実して生きている。虚無的だというのは、新しい研究方法が見つからない、というただそれだけのことを、やや大げさに評しているだけである。

 確実に、世の中は、互酬的になってきている。生きるためにそうせざるを得ないのだ。研究もそうだ。言葉もそうだ。互酬的というのは、生活そのものの謂いである。つまり、こういうことである。研究者は生活のために研究方法を探し、生活のために、生活とはかけ離れた言葉を語る。生活のために国家に逆らい、生活のために、国家に自分たちのための予算を要求する。これらすべてを矛盾を感じずにやってこられているのは、互酬的な世界をすでに生きているからなのだ。だから、互酬的になってきている、というのは、この互酬性が、自分にあらわになってきている、ということである。これは悪いことではない。国家に抗する言説を吐いても刑務所に行くことはないし亡命する必要もない、日本のぬくぬく感の根拠を、わたしたちはここいらへんではっきりと知るべきなのだ。

 ただ問題は、この互酬のシステムからはじかれてしまう存在がいるということであり、そういった存在に対する想像力の有無が、問われるということである。新しい研究方法が知りたいのなら、そこにある。そういう存在へ届く言葉をどううけとめどう発するのか。たぶんそれは無意識の、かなりの奥底に届かせるようなことになるに違いない。そういった存在への感受性があるかどうか、これが今の私の、人(研究者です)を見る物差しになっている。
               
              ぐじゃぐじゃに語らう人ども春の雪