生命のバランス2009/11/30 01:18

 しばらく山小屋に行ってなかった。土曜の研究会を早めに終えて茅野へ向かう。二ヶ月ぶりになる。山小屋もかなり傷んできている。まずベランダの一部がとうとう駄目になった。遊びに来ていたS夫婦の4歳の子がたまたま腐ってゆるんでいたベランダの一部によじ登ろうとして、ベランダから落ちてしまったのだ。大人たちがちょっと目を離した隙だった。大人たちは青くなった。女の子は下の地面で泣いていた。高さは二メートルはある。奇跡的にかすり傷一つなかった。本人はただびっくりして泣きじゃくっている。

 それにしてもよく無事だった。神に感謝である。この際何の神様でもいい。こんなになるまで放置していた私たちのミスである。十数年も直射日光と風雪にさらされたベランダはもう寿命で全面的に作り直さないといけないようだ。それから、朝突然、屋外の灯油のタンクから灯油が漏れ出した。タンクの下部にあるプラスチックでできた水抜き部品が劣化してひびが入り、そこから灯油が激しく漏れだしたのだ。これも寿命が尽きたということである。タンクもまた換えないといけない。おかげで灯油のストーブが当分使えなくなった。

 人間に寿命があるように物にも寿命がある。山小屋は建ててからもう14年たつが、そろそろいろんな物の寿命がつき始めたということらしい。自然のただ中に建てた人工物なのだから、かなり無理がある。ベランダは二ヶ月前には何ともなかったように見えた。が今回来たらすでにかなり傷んでいる。ある時に一挙に崩壊が進むのだ。これも人間と同じだ。

 東京に帰ったら、人間ドックの結果が届いている。脂肪肝と書いてある。動脈硬化もあるので要観察というところ。要するに、典型的なメタボで運動不足という結果である。運動不足は実感している。最近、いそがしいということもあって確かに運動はしていない。が、身体に負荷をかけて運動をすることにそれほどの意味を見いだせなくなっていることが問題である。

 事故や病をなるべく避けて普通に生きたいとは思っているが、身体に負荷をかけて努力しないと普通に生きられないというのは、何かおかしいと思うところがある。ほんとに普通に生きることは面倒くさいことである。結局、この社会で生きること自体が、ある意味、絶えず何らかの負荷をかけることなのである。その絶えざる負荷を生きることの普通さの感覚としないと、普通に生きられない、ということなのだ。

 私の身体のあちこちも山小屋と同じように寿命が来ている。耐用年数を超えたということか。物ならはパーツを換えればいいが、人間の場合はそうもいかない。まだ全体の耐用年数はこえちゃいないだろうから、まだ余裕のところの耐用年数を引き延ばしていくことしかできないが、それでいいのだと思う。

 立花隆の癌の番組を見ていたら、癌というのは、細胞分裂によって生命を生産していくときに必然的に起こるもので、病というものではないということであった。生命を猛烈に再生産しようとすれば、癌も同じように生産される。そこで、人間の細胞は、癌発生のリスクを抱えて猛烈に生命の増殖力を強めるか、癌発生のリスクを避けるためになるべく生命の増殖力を抑えた弱い生命になるかの選択を迫られ、癌発生のリスクを抑えるほうを選んだというのだ。だから、人間の若者には癌発生率が少ない。その選択の結果少なくとも子供を生むまでは癌にかからないような仕組みになっているらしい。

 つまり人間が何百歳も生きられるほど強靱な生命力を持つ存在を選択したとき、癌もまた強靱な生命力を持ってしまい、今以上に癌の恐怖におびえなくてはならないということだ。

 この番組を見て、生命にはある微妙で適度なバランスがあるのだという事を実感した。健康で長生きなんていう、一人勝ち的な生命のありかたなどというものは、バランスを欠いているのだ。飽食と運動不足で不健康であることを嘆きながら、仕方がないとあきらめる方が、バランスはいいということだ。強引な理屈だとは思うが。

                      落葉ども踏まれぬものから消えていく

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