ピンクのダイソン2009/11/10 00:58

 先週の金曜に奥さんと池袋の山田電機に行ってみた。奥さんは、ダイソンの掃除機を見に、私はパソコンを見にである。さすがに新装開店ということですごい人である。ダイソンの掃除機は、安かった。何と5万を切っていた。あまりにやすいので理由を聞くと、何とかキャンペーン仕様の製品で、モーターの上の部分があろうことかピンクなのである。この色はちょっと…、とさすがに奥さんも引いたが、しかし、5万を切る価格(普通なら6~7万円)には逆らえず買ってしまった。

 私は、家のパソコンのあまりの遅さに最近いらいらし始めていたので、最新のウインドウズ7に買い換えることにした。いま、家には、ピンクのダイソンと、まだ箱を開けていないパソコンがある。忙しくて、パソコンの箱を開ける暇がないのだ。

 日曜は一日原稿書き。奈良の万葉古代研究所に出す原稿に追われていて、ブログを書くどころではない。私の場合、一日机に向かっているわけではなく、それなりに日常を過ごして、原稿書きに入る。そうしないと原稿を書く気分を作れない。よほど切羽詰まったときは別として、あまり極端に追い込まないようにしながら、毎日少しずつ自分を追い込む形で仕事をしている。ブログを書くのは、この原稿書きの態勢をとってからなので、原稿を書く仕事があるときは、なかなかブログを書く気になれない。今、だから、かなり無理して書いている。

 土曜日(7日)は、柳田国男の研究会に顔を出した。今度彼らが出した本に原稿を書いたのでその合評会とやらに参加したのである。場所が歌舞伎町にあるマンションで、ど真ん中というわけではないが、花園神社の近くである。このマンションの部屋のオーナーがここで歌舞伎町大学というのを主宰していて、そこを合評会の会場用として借り受けたというわけである。オーナーにはかつての寺子屋を復活させようという思いがあるらしい。オーナーに私はここで古事記を講義してくれないかと頼まれた。こういうときにすんなり断り切れないのが私の欠点で、まあ日程が合えばなどと曖昧に返事しておいた。あまりやる気はないのだが、相手はそうはとらずに期待してしまう。私の態度も困ったことである。

 話は終始、今何故柳田なのか、ということで進んだ。生活者の側から社会を構築していくべきだ、という、Nさんの考えは私も同じであったが、具体的にどうしていくのか、という突っ込みになかなか答えが返せない。もどかしいところである。要するに、国家というようなところからでない、共同的な世界をどう構築するのか、という元左翼のだいたいたどる思考方法なのであるが、私は、それをおかしいとは思っていない。

 グローバリズム資本主義の中で、今は国家を強化して福祉政策をすすめるべきという潮流になっている。それによって国家は解体するわけではないが、ある意味では、権力や暴力装置としての国家ではない、国民との互酬的な関係にある国家の像が今見え始めている、ということだろう。ただ、こういう互酬的な公的装置は、私的な共同体の側から形成されるべきだ、というのが、柳田的な方法と言っていい。私もそのように考えている。

 だが、国家の権力を握り強引に福祉政策を進めて、というプロレタリアート独裁方式の性急な解決を人は求める。具体的にどうするのか、という突っ込みは、結局は、権力奪取という誘惑に陥り易い。私だって、勤め先の学科で、役職になり小さな権力を握ったとき、権力を振りかざして、言うことを聞かない奴は首だと言いたかった。それぐらいしないと小さな職場ですら改革は出来ないと思ったからである。まして、国家となるともっと権力を使いたがるだろう。そういうものなのだ。

 柳田の方法は、そういう権力の力ではなく、人々の共同的な力によって物事の改革は進めるべきだという方法で一貫している。共同的な力とは、協同組合的な発想もないわけではないが、生活者が、共同の力によつて、新しい持代に合わせて試行錯誤しながら問題解決に図る、というような言い方しかしていない。私もそれ以上具体的な言い方ができない。まどろっこしいが、仕方がない。

                果つるまで消費し尽くせ霜月や