続『1Q84』2009/07/16 01:25

 『1Q84』の続き。結局、リトルピープルが謎のままに残されたのは、村上春樹が戦うべき権力(壁もしくはシステム)が、闇そのものであり、見えないものであるからである。ただ、以前とかなり違って来ているのは、それが戦う相手だと、いわばシステムに向かうこちら(卵)の姿勢を鮮明にし始めたと言うことだろう。ただし戦い方は分からない。

 ひょっとすると天吾は教組の後継者になる、という暗示すらある。システムと戦うことは、まずシステムの一部になるということなのかも知れない。が、逆に言えばここにこの小説の、言い換えれば村上ワールドの、もどかしさがあると言ったらいいだろうか。

 イスラエルの講演で語った、システム(壁)と戦うというメッセージは鮮明だがその戦い方は少しも鮮明でないということである。青豆は自己犠牲という鮮明な身の処し方で天吾を助ける。しかし、天吾は青豆の愛を受け取るが、戦い方は分からない。ただ、逃げないという決意を示すだけだ。

 天吾の、小説の最後の、この月が二つある世界で生きていくという決意は、イスラエルで語った、小説家は権力というシステムと戦うという決意と同じと見ていいだろう。その姿勢はとても鮮明でシンプルだ。だが、戦い方は少しも鮮明でないし、相手も謎のまま放置されている。たぶん、これが現状での精一杯の、この世における戦う姿勢の描き方である。戦わなきゃいけない理由は鮮明である。社会にこれだけ格差があり、世界で理不尽に人が死んでいくのだから。

 しかし、そんなことは前からではなかったか。ここに来て村上春樹はどうして戦う姿勢を見せ始めたのか。昨日のNHK「クローズアップ現代」の村上春樹特集では、作家としての責任を引き受け始めたという解説があった。その契機がオウム事件だったということだ。たぶん、こういうことだ。オウム事件が伝えたことは、政治や経済からでは説明出来ない得たいの知れなさが、明らかなシステムとしてこの世に顕現し、確実に身近なもの達を犠牲にし始めたという実感である。

 村上が作家としての責任を感じたのは、それを今まで描いてきたからだ。作家の社会的な使命に目覚めたなどということではないだろう。物語的メタファーで描いてきたものが、現実世界に事実として実体化してしまった。そのことで本当に人が死んだ。嘘によって真実を語るという方法で、社会へ関わっていたはずの自分の姿勢は、その嘘が嘘でなくなることで、揺らぎ始めたのである。
 
 この揺らぎ方は、作家としてとても誠実な反応だと言っていいだろう。少なくとも、オウムに、自分が描いてきた得たいの知れぬ闇をみたのである。オウムのような何かを嘘として描いてきたのに、それが嘘でなくなったとき、描くべき嘘をメタファーをもっと複雑にして無意識のより奥底に追いやることをせずに、とりあえず、作家である自分がその嘘の中で現実に生きて行かざるを得ないことを覚悟する。それが誠実な態度だということである。

 ただ、この村上の揺らぎ方、つまり誠実さは誤解を生むかも知れない。村上春樹が、小説という武器を使って、社会を良くするために戦い始めたなどという誤解である。イスラエルの講演がその種の誤解を生んでいる可能性がある。むろん、誤解でないのかもしれない。

 が、オウムはそれなりの社会的に説明可能な根拠を持つ事件である。ただ、当事者にとっては、それは悪夢のようなもので、そこに入ったら抜けられないものである。だが、抜けたものもいるし、最初からその悪夢に無縁だったものの方が多かった。

 このようなマジョリティの理屈を並べたのは、オウムは決して謎として描く事件ではないという見方もあるということである。もし、社会的な責任云々といった姿勢が鮮明であると言うなら、このようなマジョリティの理屈にさらされるということである。何が言いたいかというと、戦う姿勢が鮮明だが、戦う相手が見えない、あるいは戦う方法が分からない、という描き方は、この戦いはやはり文学のうえでの、ということだということだ。

                           蝉が鳴く戦い方がわからずに

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