文学的感動2009/07/10 00:44

 昨日の続き。文学に於ける使用価値とは、結局、文学的な感動ということになるだろう。この感動は、退屈な時間を消費するために本を読むことでは得られない。ところが、問題なのは、この感動というものは、とても曖昧でとらえどころがないということだ。つまり、客観的に定義したり、数値化できないのである。というのは、感動は人それぞれ違うし、同じである何かがあるとしたとして、それをある尺度で測って共通化するのは不可能なのである。

 これは経済における使用価値にも言えることで、人間の生の充実にかかわる使用価値もまた人それぞれであり、客観的にとらえる指標はない。つまり計量化できない。だから、経済学者は、人間の経済活動の根幹にこの使用価値があるのだとしたら、それを何とかして数値化したり客観的に計れないかと考えたのだが、数値化出来るのは貨幣だけであって、結局断念し、数値化できる交換価値としての貨幣を理論化せざるを得なかったのである。

 文学も同じで、例えば大学で文学を教えるとする。使用価値としての文学を教えたとすると、それは客観的な指標はないし人それぞれだから、教えようがない。だから、作家の生い立ちとか、作品成立の時代背景とかをおしえることで、その文学的感動である使用価値を推測していくという方法をとった。それが伝統的な文学の教授法だった。

 が、その方法は曖昧な文学的感動を根拠にしてしかもそれを疑わなかった。そこでそういう伝統的な方法を批判してでてきたのが、文学を一つの構造体としてとらえてその構造分析する方法や、記号の集合体としてとらえ、その記号の配置や構造を分析する文学理論である。これらは、文学的感動なる価値を文学理論から排除し、貨幣のように計量し計測可能な言語の配置や仕組みとして文学を分析しようとしたのである。

 ほとんどの大学の文学教育がこのような理論に席巻された。欧米の新しい理論であったということが大きいが、何よりも、客観的に文学の価値を分析出来ると思えたからである。それで何が起こったかというと、文学に素朴に感動して文学研究を志した学生が、何か違うなと思うようになり、文学研究から遠ざかったということである。

 使用価値を切り捨て、貨幣の流通の仕組みに特化した近代経済学は、その理論が冨の形成に役立つからみんな勉強する。しかし、文学は、使用価値を切り捨てた理論を勉強しても、冨が形成できるわけではない。理論家になってアカデミズムで職を得たとしても、結果として学生の人気を失うから、職の機会を失うという悪循環に陥っている。文学部が全国の大学で衰退しているのは、こういう事情もからんでいる。

 文学的感動という使用価値を排除し、しかも冨も生み出せないのでは、構造論や記号論的な新しい文学理論はいくら客観的に論じられるのだとしても、ニヒリズムに陥るだけである。

 文学をどう論じるかは、使用価値をどう論じるかという経済学の問題と対応し、実はなかなか難しい。私は、使用価値としての文学的感動は排除されずに、きちんと価値として論じられるべきだと思っている。その意味で「自己表出」という吉本の価値論はたいしたものだと思っている。ただ、これで説明出来るとも思っていない。私なりの価値論を考えなければならないのかも知れない。そのためには今の仕事を辞めて、そのことだけをひたすら考える生活にならないといけない。無理である。

                          来世では夏雲になろう爽快に