文学と使用価値2009/07/09 00:53

 本業の本が読めなくて(本業の本とは専門の研究のために読まなくてはならない本ということです)隙間読書ばかりが続いているのだが、読了したのが内山節著『貨幣の思想史』(新潮選書)。これはとても面白かった。経済学の思想史といったところだが、マル経と近経の本質的な違いが初めてよくわかった。

 人間が生活(精神的な意味も含めて)を維持するための生産労働と消費の仕組みに還元される商品(生産物)の価値を使用価値というが、商品がその意味での使用価値でしか無いときには冨は生まれない。商品が他の商品と交換され、その価値が他の商品との比較の上で決められるようになるとその価値を交換価値という。つまり人間が自給自足で生活していれば、交換価値は生まれないが、余った生産物を他の生産物と交換する営みの中で、商品を購買し消費する欲望に目覚めたとき、交換価値は成立し、社会に冨が発生する。その交換価値は貨幣によって象徴され、従って、貨幣を集めることが冨を集めるということになる。国家はその冨を蓄積しようとするが、国家の冨は、使用価値としの生産物ではなく、交換価値としての貨幣の量によって決まる。

 例えば、国民がみんな自給自足の満足な暮らしをしていても、国家に貨幣は貯まらないから、その国家は貧しいということになる。むしろ、国民が多くの(必要以上の)商品を生産し消費すれば貨幣の流通量は多くなり、その国家は豊かということになる。アメリカがそうであり、今では中国がそういう意味で豊かな国になろうとしているのである。

 さて、初期の経済学者は、人間の幸福は使用価値にあると考えた。が、貨幣による市場経済がすすみ、資本主義社会になるにつれて、交換価値によって経済は動いているように見えた。当初は使用価値の原理は経済の仕組みに本質として機能しているに違いないと、その原理を見出そうとする経済学が成立する。これがいわゆる古典経済学である。が、結局そんな原理は存在しなかった。このままでは人間は貨幣に疎外されるだけである。そこで、どうしたら、疎外された人間を救済するために、交換価値で回っている経済社会を使用価値を重視する経済に変えていけるのか。このように経済の理論に哲学を持ち込んだのが、ドイツを中心とした経済学であり、その流れに登場したのがマルクスである。

 この考え方は、経済は歴史の産物であるから、人間が経済に関与していけば経済も変わり得るという確信に支えられた理論である。つまり、人間が社会を変革し、交換価値に支配された経済を変えていくことで人間を解放しようとする理論である。結局、この理論も上手くいかなかった。使用価値にこそ人間の幸福がある、というのは、ある絶対的な価値を前提に理論を組み立てる伝統的な西欧的価値観であり、結局そのような価値観を超えられなかったのである。人間の幸福観はもっと複雑でとらえどころがないのである。

 そこで、使用価値と交換価値を切り離し、使用価値は一切問わないことにして、どうしたらこの複雑な資本主義のシステムのなかで、交換価値としての貨幣を安定的に貯えられるのか、その方法を徹底して考えるだけの経済理論が発達する。これが近代経済学であるる。

 以上、経済学のテキストのおさらいみたいな文章でした。

 さて、なにがおもしろかったか、というと、私は、この使用価値と交換価値を、文学の価値としておきかえたらどうなるかという視点でずっと読んだからである。一時期流行った記号論は、文学の価値を徹底して使用価値から切り離し、交換価値として論じようとした理論である。現代の文学理論は、近代経済学理論と同じく、使用価値を切り離して論じる傾向にある。あるいは、使用価値は論じないで、使用価値を疎外する国家を批判しない文学は価値ではないとする伝統的な考え方もいまだに残っている。

 文学の使用価値をまともに論じたのは、吉本隆明で、それを自己表出という言い方で述べた。が、この理論は経済学でどういう理論に対応するのか、よくわからない。文学を使用価値の側に回復させようとする意図かららすれば、マルクスの経済学ということになるだろうが、同じだとも思えない。暇があったらそのことをゆっくりと考えてみたい。

                         七月や貯金の額を聞かれけり