道行きの歩き方2009/06/08 00:33

 昨日(土)は古代文学会のシンポジウム。これがあるので私は学校へ。わが校がいつも会場で、その準備は私がするからだ。おかげで今週も月曜から土曜まで出校。

 シンポジウムはなかなか面白かった。道行きと邂逅というテーマで、古代と中世の女性の道行きの物語を扱ったものだ。私の興味は、女性が抱え込んだ情念を浄化するような道行きがあり、その到達点で聖化されるような展開になっていることで、突然それと同じようだが全く逆の道成寺縁起の話が頭に浮かんできた、思わず、どう考えますか、と質問してしまった。

 道成寺縁起は、僧に裏切られた寡婦が激しく恨んで僧を追いかけ、大蛇に変身するというものだが、激しい情念と、大蛇(異界の神)への変身という展開が、似ていると言えば似ている。浄化する道行きというのとは違うが、激しい情念は異界的なところへと行き着かないと決着しないという展開においてよく似ており、そして、その主人公はやはり女性でないと、というところも同じである。

 激しい情念と異界的な世界への落としどころまでにはタイムラグがあり、そのタイムラグを道行き的に物語化したのが、絵巻物としての道成寺縁起なのだというのを阿倍泰郎氏が解説。つまり、最初の法華験記では裏切られるとその場で死んでしまいその後蛇になって追いかけるという展開だが、絵巻物ではその追いかけるプロセスを変身譚に変化させた。それは絵的に面白いのと、熊野詣での道行きの逆の意味での反映ではないかと言う。さすが、阿倍さん、と何でも答えてくれる阿部さんに感謝した。

 変身譚は私の好きなテーマ。授業では仮面祭祀の講義を毎年やっているが、仮面もまた変身する。物語とはほとんど変身譚である。外面的に変身するか内面的に変身するか、その違いだけだ。

 ところで、道行きとはあの世とこの世を移動する時の移動の仕方だ。神がこの世を訪れるのは巡行という道行きだし、人があの世に行くのもあるいは聖地を廻るのも、道行きである。何故道行きというのか、たぶん真っ直ぐに、つまり直線的に行かないからあるいは行けないからである。あっちこっち寄りながら移動する。だから道行きという。心中の道行きは、それこそすんなりとは進めない。あっちの土地に寄りこっちの土地に寄り、あの世へと向かう。

 神の巡行は、あっちこっち寄ることに意味がある。神楽に「へんばい」という足で地を踏む所作があるが、あれはもともと足の悪い兎王の歩き方である。道教では、北斗七星のの形に足を踏む歩き方があり、それが兎王の歩き方として流布され、天に到るための歩き方だと信仰された。その歩き方が呪術的な所作として日本に入ってきた。興味深いのは、それが、真っ直ぐには歩けないという歩き方であることだ。おそらく道行きの歩き方なのではないかと、思う。

六月や女の道行き足行かず

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