音漬け社会と日本文化2009/05/27 01:02

 自己評価点検報告書がほぼ完成。後少し修正をして来月中に提出。何とか間に合ったというところか。官僚が書くような文章は嫌いなので、けっこう主観的な要素を交えて書いていたら、事務方に直して下さいとけっこう細かく指摘された。文章のプロとしては少しプライドが傷ついたが、まあ官僚の文章のプロではないから仕方がない。素直にいうことを聞いて文章を直した。

 『イザベラ・バード日本紀行上下』(講談社教養文庫)と『音漬け社会と日本文化』(中島義道・加賀野井秀一著講談社教養文庫)を読み終わった。イザベラバードについては以前少し書いたが、48才のイギリス夫人で、明治11年に日本に来て、東京を発ち、東北から北海道にかけて一人の通訳だけを連れて旅をしたものすごいおばさんである。

 熱心なキリスト教徒でもあるらしく、日本人はキリスト教を信じれば精神的にもすばらしくなるのにと残念がっている。日本人はほとんど無宗教で迷信ばかり信じていると、宗教に関してはけっこう偏見の目で語る。キリスト教という強固な信念の眼鏡で見ているのだからある意味では正直であるということだ。

 当時の西欧的な価値観、つまり西欧的文明や文科を絶対的ななものとしアフリカやアジアを未開の地とみなす価値観そのままの人の紀行文だが、割合冷静に分析しているところもあって、なかなか面白いところもある。

 当時の地方の日本人は、夏は裸族になるということがよくわかった。女も男もほとんど裸だ生活していたということにある意味では納得。長い旅のあいだ、ゆすりたかりにあわず盗みにもあっていないことに驚嘆し、日本人の道徳心の高さ、親切であること、子供を可愛がることを賞賛している。ただ、一方では、伊勢に行ったとき、伊勢神社の近くに精進落としの遊郭があることに驚き、そういった日本人の不道徳さにも驚いている。

 日本人は西欧から物質主義だけを取り入れている、という批判がけっこう鋭い。アイヌの人たちを日本人よりも親しみを持って書いている。どうやら顔立ちや皮膚の色が西欧人に近いかららしい。とにかく酒を飲むのが好きな連中だと批判めいた書き方をしているが、むろん宗教的な意味合いがあることを考えてはいない。

 『音漬け社会と日本文化』は期待しないで気まぐれに読んだ本だが、これがけっこう面白かった。中島義道と加賀野井秀一との往復書簡だが、とにかく、この二人変人である。彼等の耳に飛び込むあらゆる不快な音を彼等は許さない。電車内のアナウンス等の様々な声、むろん、イヤホンから漏れるカシャカシャ音も許さないし、近隣の物音、物売りの声それらを糾弾することを使命としている二人だが、凄いのは、彼等は、現実の生活の中でそれらの音を聞くと徹底して音源に向かって戦いを挑んでいるということだ。つまり、抗議するのである。公共の音がうるさければ役所に乗り込む。近隣の音には乗り込んで注意する。あるときは生協の配送車が荷物がついたことを知らせるスピーカー音がうるさいと生協に向かって抗議する。

 よくまあ刺されないで生きていると感心するのだが、本人達もその自覚はあるらしい。この本の面白さは、この変人の二人が、自分たちがマイノリティであることを自覚しながら、不快な音を許容するもっと変である日本や日本人を分析していくところである。特に日本人と言語との関わりが論じられていて、そこがこの本の読み応えのあるところだ。

 哲学者中島義道が述べていることで大事だと思ったことは二つある。一つは、日本人の言語の接触の仕方が「蠱惑的」であり西欧人のは「判断的」であるということ。この「蠱惑的」と「判断的」は森有正の言葉らしいのだが、なるほどと思った。つまり接触が直接的で、だから、感覚的であるということだ。判断の前に嫌いとか好きという接触の仕方が判断を左右してしまう、ということ。もう一つは、人を理解出来ると思うことは間違いである、ということ。人とのコミュニケーションは本質的に不可能である、ということをまず知るべきだということ。

 つまり、日本人は、相当に親切で相手を気遣う心を持っているのに、不快な音を垂れ流してそれに傷つく人を理解しないどころか、抗議する人を変な目で見てみんなで排除するのは何故か、という答えがそこにある。

 まず言語との接触が直感的だから、抗議する人と対話が出来ない。変な人とという直感を持ったら絶対にその人と冷静に話はしない。そして、本当は理解など出来ないのに、みんな理解出来るよ、という無神経な理解幻想を日本人は持っている。だから、マイノリティの存在が理解出来ないし、彼等との対話が出来ないのだと言う。

 私は日常を生きる感性において、少々うるさい音でも我慢する方である。よほどの事がなければ注意はしない。たぶん人よりは注意するタイプだとは思うが。だから、この二人は私から見て変人だと思う。でも、私はこの二人の理屈はよくわかるし、正しいとさえ思う。むろん私は変人ではない(と信じている)。だからこの二人には近づきたくはない。何故ならこの二人は、ある意味では苦行者だからだ。特に中島義道氏は生活に日常と非日常の境目を作らないで生きている。こういう革命的な生き方は(本人はドンキホーテと言うが)、遠くから眺めている分にはいいが近づくと迷惑である。私はかつてかなり迷惑を掛けたほうだから、もうそういうのはいいやと思っている。

 私はイザベラバードが日本の田舎を旅して驚嘆した貧しいけれどもとても親切で心優しい日本人のふるまいは、日本人の「蠱惑的」な言語との接触の仕方に起因すると思っている。それは悪くはない。が、悪い所だってある。その悪いところとどう戦うのか。けっこうこれは難問である。西欧的な価値判断で切ってしまう、という戦い方が色褪せているからこそ、このような本が書かれなければならない、ということなのである。
 私は柳田国男論を書いたばかりなのだが、これは柳田国男の評価にもつながっていることだなと感じた。
                    夏めく日耳をふさいで目をつむる

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