人の相談にのる資格はない2009/05/16 00:44

 今週は会議会議である。火曜から金曜まで毎日会議の連続である。さすがに頭が混乱してくる。こんなに続く理由は、共通教養教育の委員会というのがあって、この委員会がいろんな分科会に枝分かれしていて、それぞれに会議を開いて今年度の方針を出していく。そのいろんな分科会の幾つかに私が入っているからである。

 全学的に行われている共通教養教育の創設に最初からずっとかかわってきたこともあって、私がいろいろと口出ししているものだから、責任ももたされているということである。さすがにこれだけ会議があると身が持たない。何とか身をひく事を考えなくてはいけないのだが、困ったことである。

 読書室委員たちと今年の読書テーマというのを決めた。テーマは「東京」。なかなかユニークなテーマであると思う。「東京」に関わる本を集めようと思っている。それから前期の千字エッセイのテーマも「東京」にした。東京からいろんなイメージをふくらまして書いてくれればいいのだが。

 今私の学科では教員と学生(新入生)との面談をやっている。私も何人かの学生と面談をした。何か悩んでいることなどない?と一応型どおりに聞く。それなりにみんな悩みはかかえているが、なかなか面談で話してくれる学生は少ない。私がカウンセラーで、その場がカウンセリングだったら話は別だが。

 学生との面談をしながらいつも思うのは私にはカウンセラーは無理だということだ。私には困っている人の話をじっと聞いてあげる余裕というものがない。たぶん、人の悩みを聞いていると私もその辛さに共振して私の方が耐えられなくなるのではないか、と思ってしまうからかも知れない。

 私は、ドラマでも登場人物がこれからひどい目に遭ったり哀しい目に会うとあらかじめ分かっている場合は、それを見ないようにチャンネルを替えてしまう癖がある。悲しい事が分かっていてそれに付き合うことが嫌なのである。

 心理学的に分析すればたぶん私には幼児期にトラウマがあって、そのトラウマが繰り返されることを避けようとする防衛機制が無意識に働くということだろう。だから主人公が最後に死ぬドラマは総じて嫌いである。

 幼児期のトラウマのせいか、私は人の心を必要以上にわかろうとする癖がある。だいたい多面的な自分の一面を手がかりに、こういう心の動きをする人だなと理解する。当たっているかどうかは分からないが、そうやって人に対処してきた。これも傷つくことを怖れる私の防衛機制であった。

 だから、学生の不安や悩みについて、私はそれを理解しこうすればいいんじやないかとすぐに答える語り方を知っている。だから、じっくり聞くことをせずに私の方からアドバイスをしてしまう。それが的確なアドバイスかどうかは分からないが、ただ問題なのは、私がしゃべりすぎるということである。しゃべることは、私の場合、悲しい結末が分かっているテレビドラマのチャンネルを替えてしまうことと同じ事である。

 アドバイスをしてくれる私を学生はありがたく思うだろうが、後で、実は何にも解決出来ていないで、何かごまかされたような気分でいるに違いない。その意味では私には人の悩みを聞く資格は無いのだが、これも教員である立場上仕方がない。

                         五月十一日面談泣かれる