連休ですが…2009/05/03 23:32

 2日(土)は学会で東京往復。新型インフルエンザで果たして開けるかどうか心配したが、何とか開催できた。学会のシンポジウムの会場校を提供している身としてはほっとした。

 ただ、9日にはアジア民族文化学会の大会があり、そっちはどうなるかまだわからない。早めに感染者が出てしまえば、対策のたてようがあるが、最悪なのは、前日に感染者が出て当日の大会は中止です、という場合だ。そうならないことを祈るしかない。今日のニュースで、またA型の陽性反応が出たということだ。どうなることやらである。

 昨日、東京から帰ってきたのが夜中の12時近くで、疲れてはいたが、2時過ぎまで原稿を書いていた。さすがに、今日は疲れて体調が悪い。無理はするものではない。午前中散歩に出ていた奥さんからの電話で起こされた。首輪のないビーグル犬が付いてきていて、別荘の管理事務所に連絡してくれ、というのである。どうも、迷い犬らしい。

 管理事務所に連絡して、奥さんのいるところへ車で行くと、確かにビーグルが人なつっこくよってくる。ところが、捕まえようとするとするりと逃げてしまう。ある山荘の敷地に入り込んで家の周りをぐるぐると回っている。山荘の主人と奥さんと私とで何とか捕まえようとしたが、犬も近寄ってくるが警戒はしている。首輪のない犬を捕まえるのはまず無理である。どうしたらいいものか、と思案していたが、その山荘の玄関のドアを開けておいたところ、何とビーグルは家の中に勝手に入って行った。どうも家の中で飼われていた犬らしい。そこで、ドアをしめて管理事務所の連絡を待ったところ、飼い主が見つかったという。やかで、金髪のお兄ちゃんがやってきて、すいませんと言いながらビーグルを連れて行った。一件落着である。

 昨日のシンポジウムのテーマは「物とトポス」。物とトポスの組み合わせはおもしろい。ただ、物をどう扱うかという点に不満は残った。パネラーへの質問に、トポスの神秘性(聖性)はどのように成立するのか、言説で作られるという語り方なしに説明が可能かどうか、といった質問があったが、うまく答えられなかった。たぶん、物というのがその答えになるはず。物とは、言説で言及できないあるいは言説で取りこぼしてしまう、という本質を持つ。そういう物を象徴物として抱えると、どんなに荒唐無稽なトンデモ言説でも、聖性をまとうことが可能になる。そこが不思議なところなのである。そういう物の力についての驚きを語ってくれるともっとおもしろかったなあ、というのが感想。

 トンデモ言説すれすれの思想家平田篤胤が取り上げられたが、実は今原稿を書いている柳田国男の『先祖の話』に篤胤の名前は登場する。柳田は篤胤を尊敬しているのである。柳田は、死後の魂が先祖になるという先祖信仰論を展開するのだが、仏教が入ってきてから日本人のこういう信仰はおかしくなったと考える。つまり、仏教を克服して日本人の固有な信仰をどう取り戻すか、と考えたとき、仏教以前の日本人の信仰世界を明らかにしなければならないとして、先祖信仰論を展開するのである。実は、こういう思考は、江戸の国学者の思考と同じものであって、だから、柳田は自分の先祖信仰論を新国学と呼ぶのである。

 茅野へ戻る車中で、『イザベラ・バードの日本紀行』(講談社学術文庫)を読む。イザベラ・バードは、明治初期に単身で東北から北海道にかけて冒険旅行を試みたイギリスの女性である。その紀行文だが、女性の目で当時の日本人が辛辣に描かれている。栄養が悪く、背が低く、のっぺりとした当時の日本人は、西欧人にとってかなり悪い印象だったようだ。「これまであった中で最も醜くて最も感じのいい人」と日本人の印象を述べている。
 
                       夏めく日緑茶と文庫を並べたり