サクラ切る馬鹿2009/03/05 01:14

 相変わらず忙しくて、ブログどころではありません。

 何とか基礎ゼミの原稿を印刷所に渡した。結局190ページのなかなかの厚さになった。それから今度は「文章表現」の原稿をやや訂正しこれも印刷へ。

 忙しいのは、自己評価・点検報告書を書き始めたからである。短大の総括みたいな文書をとにかく細かく細かくしかも数字を入れながら書いていく。今これにかかりっきりで、とにかく休めない。

 以前は3月というと、けっこう時間があって本も読めたしリハビリで体の手入れをしていた時期だったんだが、今は、寿命を磨り減らす時期になってしまった。なんというめぐりあわせだ。いったいどんな罪を犯したというのだ。とつい愚痴をいいそうになる。

 もう三月である。サクラの満開時期には私は中国に行っていそうだ。私のマンションの庭のサクラは無残にも植木屋に枝を伐られてしまった。伸びすぎだので切ったということなのだが、むろんマンションの管理人が頼んだのだが、このサクラを楽しみにしていたのに、何で刈るんだよ、つこれもつい愚痴を言いたくなる。「サクラ切る馬鹿」というのを知らないのか!

 ちなみに「サクラ切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言う。梅は丈夫な樹なので枝を切っても平気である。むしろ、枝を切って生命の危機感を感じさせないと花を咲かせないと言われている。だが、サクラは逆で、元々からだが弱い樹なので枝を切ると余計に弱って枯れてしまう。サクラが毎年美しく咲くのは、常に危機感があるからなのである。そのサクラを切るなんて、と思ったのだが、まあ植木屋が切っているので、そこは死なないように、長生きするような切り方をしたのだろうと思う。ただ、今年は咲かないだろう。花芽はほとんどないからだ。

 24日から30日まで中国の調査。帰ってくる頃には、サクラは満開だろう。28日頃が花見だろう。マンションの住人の花見にもそこいらだろうが、私は中国で出られない。花見の係はわが家なのだが、奥さんに頑張ってもらうしかない。サクラを切っても花見はするらしい。というのも、周囲にはけっこうサクラの樹があるからで、どんな風にサクラが咲くのか楽しみではある。去年のサクラの時期はまだ越して来ていなかったので。
 
                       若枝は春の雪などはらいけり

ひとりのリスク2009/03/11 00:14

 久しぶりのブログ。近況報告から。先週の土日は奈良へいつもの万葉の研究会。月曜は卒業パーティ。いつものディズニーランドのホテルである。今日は朝から会議。日曜から奥さんが旅行に出かけていて、チビの散歩をするのに朝早く起きなければならないし、夕方も遅くなれないし、結構忙しい。

 自己点検・評価報告書の作成に追われていて、目が回る。二月締め切りの原稿催促の手紙が来る。とにかく今書ける状況じゃないと泣き言を連ねた言い訳の返事を出しておいた。

 こんなに忙しいとは、これも歳を取ったせいだなと思う。無理がきかなくなってきている。徹夜してでもという気力と体力がない。たいてい今まではどうにかなってきたものだが、もうそういうわけにもいかなそうだ。無理なことは無理だと観念すべきだろう。いままで無理なことを引き受けて何とかしてしまうことを面白がっていたところがあって、そういうのはもうやめにする。

 卒業パーティで学科長の挨拶というのがあって、会場に行くまでに何を話そうか考えた。めでたい席だけど、今の厳しい経済状況を考えて、次のようなことをしゃべった。

 わたしたちの社会は一人で生きることを、一人は気軽だ、自由だと言って、価値としてきたところがある。だからけっこう一人で生きることを選んだ人たちが多い。でも、今の時代を見ていると、一人で生きることは、けっこう高いリスクを覚悟しなければならない生き方になってきている。例えばあの派遣村を見るとわかるが、職を失って住むところが無くなるまで追い込まれるのは、一人で生きている人が多い。

 実は、そこには男女の違いがある。女性は一人で生きることのリスクの高さををよく知っているから、誰か頼れれる人を探したり、人と人との関係を大事にする。そういう努力を男はやってこなかった。だから、派遣の割合も派遣切りも圧倒的に女性の方が多いのに、女性が住むところを失う程までに追い込まれないのは、一人で生きることの辛さを男より理解していざという時に頼れるところを持っているからだ。

 だから、君たちは一人で生きることを警戒した方がいい。高望みしないで早く結婚したほうがいい。ダメな男を掴んだらすぐに取り替えればいいのだから。負け組にならない方がいいし、お一人様老後にならないようにした方がいい。友達も大切にしたほうがいいし、短大の友達とも歳を取ってもいつまでもつきあえるようにした方がいい。

 と、スピーチしたが、ちょっと場違いなスピーチだったかも知れない。後で気付いたが、卒業生よりも、ある教員にとっては自分のことを言われたような気がしたかも知れない。一人で生きている人ってけっこういるのである。 

                         春めきて犬が寄り添うひとひとり

柳田への批判2009/03/16 01:40

 今日は卒業式である。良く晴れて、気分のいい卒業式であった。やたらに記念写真をとって、妙に顔が疲れてしまった。写真映りが悪いと思っているので(写真映りが悪いのではなくて自分の顔が気に入らないだけなのだが)、記念写真の時は顔がこわばるのである。学科長は、いつも集合写真の最前列の真ん中に坐って無ければならない。しんどいことである。

 学生の顔はさすがに華やかで見ていてこちらも気が晴れる。これからどういう人生が待っていることやら、少し心配ではあるが、羨ましい限りである。若いということはそれだけで価値があると思う時があるが、卒業式もそういう時だろう。

 そのあと、私の属する日本語・日本文学コースの懇親会。教員と助手さん二人の送別会もかねた。楽しい会であった。

 帰ったら、NHKで写真家、森山大道の旅というドキュメントをやっていた。何か懐かしい写真が出てくる。私より上の世代であり、私どもの世代にとっては、私たちの時代を象徴する写真家である。まだ元気で東京の路上を撮り歩いている。写真もいいなと思いながら見ていた、実は若いときに写真をやろうと思ったときもあった。すぐにあきらめたが、写真は表現方法として嫌いではない。

 ここのところ柳田国男の『先祖の話』について書こうと思っていて、学校の雑務の間をぬって関連する本を読んでいる。昨日から読み初めて読了したのが岩田重則『戦死者霊魂のゆくえ』。

 柳田は『先祖の話』で、戦争で日本人が死をおそれずに戦う文化的な背景に、この世とあの世の近さ、親しさがあると説く。つまり、近いからこそ、死者の魂はあの世とこの世を行き来する。そういう考えがあるから死を怖れないのだと述べていく。それを象徴的に「七生報国」という言葉で述べる。

 ここはかなり批判されているところだが、やはり、岩田重則も、柳田のこのような先祖信仰から導き出した「七生報国」という言い方は、結果的に戦争を肯定し、戦争遂行のイデオロギーそのものになっていると批判している。むろん、一方で、靖国神社のような国家の神社に魂を管理されない、家での祖先祭祀を強調するところは評価している。

 戦死者という横死者をどう祀るか、という問題は実は日本の宗教はきちんと結論を出していない。だから、靖国神社が存在するのだというわけだが、柳田は、戦死者の魂は、遺族が家や村で先祖を祀るように祀るのであると述べて、靖国神社が祀ることには批判的な言い方をしている。そこがなかなか興味深いののだが、むろん、戦争での横死者をほんとうに先祖を祀るように祀れるのか、疑問が出てくるところではある。

 岩田重則の本は、『先祖の話』をよくまとめていてためになったが、何か違うなと言うところもある。それは柳田を結果的に戦争肯定だとか、戦争遂行のイデオロギーだとか、とても明確に言い切ってしまうところだ。

 そういう批判が多いので、そういう批判が持つ陥穽に気付いていないのではないか。柳田は戦争を肯定するとか批判するとか、そういう立場に立たなかった。それは柳田の学問の最初からの方法だったと言える。むろんそれを批判することはいくらでも可能だが、そう言う立場であれば、戦争を肯定したとか批判し得たのにしなかったというような批判は、的外れである。

 結局、こういう批判は柳田に戦争を批判して欲しい、という無いものねだりがある。日本の戦争は絶対悪だから、それを批判しないどんな学説も悪であるべきであるという、明解な物差しがある。別に柳田を救いたいというのではない。こういう批判は安易すぎて面白くないのだ。

 こういうように一度学問を批判してしまうと、当然、批判されないためには、学問は、戦争の遂行者である国家に対して常に批判的なスタンスを取らなければならなくなる。つまり、一番批判的なスタンスを取ったものが、とっていないものを批判する、というヒエラルキーが学問の世界に成立してしまう。そうすると、最初から国家に批判的な思想に依拠した学問が大きな顔をして威張り始める。それをイデオロギーというが、例えば戦前はプロレタリア階級を価値としない芸術はそれを価値とする芸術によって容赦なく批判された。そのようになる。

 今、柳田を論じる場合、どうもそういう批判の仕方が流行っていて、この本もまたそうだった。そこがつまらなかった。そういう論じ方をしてしまうことで、柳田の大事なものが論じられなくなっていると思うのである。

  さようなら陽射しを浴びて巣立ちたる

優しい心情2009/03/19 00:39

 ここのところ暖かい日が続く。散歩していても、樹の花が目に映る。白木蓮が咲き、彼岸桜も咲き始め、ようやく春らしくなってきた。雑務もそろそろ片付き初めたが、中国行きの準備と、締め切りを過ぎた論文の準備と、やることはたくさんある。

 今日は、車で学校へ。山小屋で使っていたパソコンを助手室で使いたいというので、持っていった。ネットワークにはつながらないが、ワードやエクセルを使うには充分である。日立のプリウスで、映像を見るにはなかなかいいパソコンだ。ここから車で学校へ行くのは初めてである。用賀から乗って首都高へ。かなり早くついた。 

 ここのところ、戦死者の祀り方にこだわって、何冊かの本を読んでいる。近代日本では戦死者を英霊というが、一方で、御霊と書いてミタマとも呼んでいる。だが、御霊はゴリョウとも言う。ゴリョウはいわゆる御霊信仰のことで、祟る神を鎮めることであるから、どうも、この字を使うのはためらいがあって、次第に英霊という呼び方が一般化されてきたらしい。

 考えてみれば、日本では人である死者を神として祀るというのは伝統的に御霊信仰であった。特に異常死として見られる死者は怨念を残しているから、それが禍を起こさないようにと祀るのである。戦死者を神として祀るということは、日本の伝統からすれば御霊信仰の範疇に入るだろう。そう考えれば、靖国神社は菅原神社のように祟り神を祀っているということになる。当然、国家としてそれはまずい。だから、英霊という言葉を普及させ、死者の残念(残された思い)とは関係なく、国のために犠牲になった魂として祀るのである。そうしなければ、国家という名の下に国民を兵隊として徴用できなくなるからである。

 柳田国男は『先祖の話』の中で、この死者の最後の思いを「最後の一念」と呼んでいる。この「最後の一念」を聴いてあげられるのは、遺族しかいない。だから、死者は遺族のもとに帰るべきだし、帰って、先祖になっていくという。つまり、柳田の考え方からすれば、戦死者の魂は靖国神社にはいかない。それぞれの遺族の家にあるいは故郷の村にまずは戻るのである。その意味で『先祖の話』は、戦死者の魂を国家が管理しようとする目的で作られた靖国神社を批判する書物である。

 実は柳田も死者の「最後の一念」が怨霊になり得ることがわかっているはずだが、それについては触れない。というより、戦死者の魂と繋がりを持つ遺族の思いが、その魂の最後の一念を清めて、先祖という神にしていくのだ、と考えていたようだ。

 その意味で『先祖の話』にはは死者と生者との美しい関係が描かれている。その美しい関係の中に、無残に戦場で死んでいった若者の魂をとどめたいという柳田の思いはよくつたわってくる。それを結果的に戦争を肯定したからだめだと批判的に読むのではなく、生者と死者とを極めて近い関係だと思い、身近な異界への幻想の中で死者とつながろうとする、日本人の死生観が、戦死者という異常死をどのように受け止めるのか、と問われた時の受け止め方の一つであったと読むべきなのだろう。

 戦死者は遺族のもとに帰って、祀られ、清められて先祖という神になる。そして家を守っていく。そこには、死者を思う遺族の優しい心情と、子孫を見守ろうとする死者のやはり優しい心情がある。柳田が言いたかったのは、日本人にはそういう優しい心情があるということである。

 私の住むマンションの私たちの家には、ヤモリが住み着いている。ヤモリは家守であり、昔から大切にされてきた小動物である。神とはいわないが我が家では大事にしている。

                       春の土たましひがまだ眠つてゐる

連休はリハビリ2009/03/23 00:14

 この連休は久しぶりに山小屋へ。S夫婦も一歳と三歳の子ども二人を連れて来訪。なかなか賑やかな連休となった。子ども達はチビが大好きなのだが、チビは順位としては自分の方が上だとおもっているらしく、撫でられると迷惑そう。ただ、予期せぬ時に勢いよく触られたりすると、チビもワンワンと吼える。すると子ども達はワアーンと泣き出す。なだめるのが大変である。連休は暖かったり寒かったりだっだが、やはり暖冬の影響で雪は少ない。私はリハビリと24日からの中国行きの準備、といってもただ体を休めるだけだが。温泉に入るのだけが楽しみである。

 私の山小屋の近くに定住している知りあいが二人最近亡くなったことを知る。一人は私より年下。大学の教員で仕事を辞めて山荘で悠々自適に暮らしていた。あまり人付き合いもしない人だった。独り身で、酒が好きだった。聞くところによると温泉で倒れたらしい。もう一人は、私が山小屋を作った同じ時期にやはり定年退職して近くに山荘を建てた人で、もう七十を越えたと思うが、最近は一人で生活していた。やはり酒が好きだったらしい。その人も亡くなった。

 奥さんは私のことを心配している。しかし、私は酒好きではない。独り身でもない。ただ、仕事のしすぎというところはある。体には気をつけているが、運命というのは誰にも分からない。豪放磊落に生きて長生きするかも知れないし、慎重に生きても長生きしないかも知れない。まあ言えることは、まだやることはあるということ。

 田中丸勝彦『さまよえる英霊たち』(柏書房)はなかなか面白い本である。この田中丸氏も若くして(五十四際)亡くなった。脳溢血と言うから他人事ではない。この本は氏の論文を集めた遺稿集である。

 近代以降の日本人は、地域や家で戦死者をどう弔ったか、各地の事例を集めて報告している。つまり、靖国神社ではなく、実際に家々や村で戦死者はどのように弔われ、どのような手順で靖国に祀られるのか、とても詳しく記されている。

 興味深いのは、まず戦死者の葬儀はほとんど公葬だったこと。つまり、村や町の公的な葬儀であり、私的な葬儀ではなかったこと。そして、墓を建てるときも、他の先祖の墓とは必ず別にされていたこと。死者として区別されていたことである。最初これは、戦死という異常死の問題かと思っていたが、戦死者は神になるという政府の通達が、一緒の墓にすることをためらわせているのだという田中丸氏の解説がある。

 このような事例を読むと、柳田国男が『先祖の話』で強調したような、戦死者の魂を迎えて先祖としていく、という家々の先祖信仰は、戦死者にはあてはまっていないことがよく分かってくる。柳田は現実を見なかったのか、それとも、このことを知っていたからこそ、『先祖の話』を書いたのか。たぶん後者だろう。

 柳田国男は「英霊」という言葉をほとんど用いていない。嫌いな言葉だったようだ。ちなみに靖国という言葉も出さない、やはり嫌いだったようだ。戦死者を公的に弔い、国家の神社に祀ることに批判的であるということだが、それは、まさに、地域のたくさんの神々を、国家が勝手に合祀してしまう明治の神社統合政策に反対したのと同じだった。個々の戦死者の魂は家族によって弔われ先祖という神になるべきで、国家の神社に統合されてはたまらないという思いはあったのだと思う。  

   死ぬひとありはしゃぐ子あり芽の裂くる

中国から帰国2009/03/31 00:50

今日中国から帰国。

何とか無事に(おおげさですが)帰ってきました。

一週間、日本の情報は入らず。別に変わったことはないようですね。

明日から、仕事。正直、帰りたくありませんでしたが、かといって中国に居続けるのもちょっと…  

調査はかなりハードでしたが、かなり成果はありました。まだまだ少数民族には古い文化が残っています。

調査についてはブログで紹介していきますが、取りあえず帰国の報告です。

                 中国の春の兆しを持ち来たり