壁と卵2009/02/26 00:40

 何とか基礎ゼミテキストの原稿を完成させた。予算の関係で、結局、A5版180ページのテキストを、私が編集して打ち出した原稿をそのまま印刷して製本するということになった。つまり、表紙のデザイン、目次、ページ番号、活字の大きさ、ページごとのデザイン、全部私がやって、印刷所はそれを印刷して製本するだけ、ということである。だから安く出来る。普通はデータを出して編集も含めて印刷所にやってもらう。その編集を私がやるわけだが、むろん私には編集費ははいってこない。

 難しかったのが、一太郎とワードの両方のデータがあって、そのバランスをどう調整するかである。私は一太郎で原稿を作るので私の書いた原稿は一太郎である。ところが、依頼した原稿はほとんどがワードで、しかも図表が多い。A4の大きさで作ってくるが、A5の大きさに直すと図表などはかなりずれてしまう。その調整がやっかいであった。書式を整えるには、ソフトを統一した方がよいのだが、使い勝手は一太郎がよいので、どうしても一太郎に頼ってしまう。ワードを一太郎に変換したくても図表が入っていると難しい。それは逆も言えるのである。A5の用紙に一応全部印刷してみた。なかなかうまくいったと思っている。 

 昨日、篠原霧子歌集『白炎』の歌集評の原稿を8枚ほど書いて送る。二日で書き上げたが、なかなかアイデアが出なくて辛かった。それでも面白いユニークな歌集だったので、書いていて楽しかった。評論は料理の面白さというのとほんとに良く似ている。今回はけっこう上手く料理ができたのではないかと思っている。ただ人が読んでどう味わうかはわからない。特に本人はどう受け止めるか、評を書き終えた後は、ちょっと言い過ぎたかなとか、もっとほめときゃよかったとか、いつも反省である。

 村上春樹のエルサレム章受賞のスピーチがあちこちに出ていて、読んでみたが、さすがにうまい比喩を使った良いスピーチだなと感心。壁と卵の比喩はこれからもよく使われるだろう。壁はシステムのたとえだと言う。英語でシステムと言っている。週刊朝日はこのシステムを「体制」と訳していた。他はほとんどそのままシステムと訳している。

 体制というのは古くさいイメージが漂う。ここはシステムの方がいいだろう。体制はそのまま国家のイメージと重なるが、システムは国家というよりは装置のようなものである。イスラエルの暴力は確かに国家の暴力だが、村上春樹の言う暴走するシステムという壁は、もっと身近に何処にでもあり得るものだろう。例えば自爆テロも、管理者がいて、自爆テロの計画数が決められていて、志願者を何人か集めてくるノルマがあって、そうやって若者を自爆させているとしたら、それは国家ではないが、村上が言う壁としての立派なシステムだ。

 システムによってわれわれは自分が生きている社会を成立させているが、そのシステムによって時には人間であることの根拠を奪われる。だが、システムの規模を小さくして身近なものにしていけば、それは壁として嫌悪すべきものでもなくなる。そこまで考えてしまうと、村上春樹のスピーチは意味を持たなくなるが、むろん、そこまで小さくする必要はない。どんなに親しみのもてるものであっても、ある限界を越えると、それは人間を排除する機械にも暴力装置にもなる。村上の言っている壁としてのシステムとはそういう限界を越えてしまったシステムのことだろう。

 もう少し批評的に語るなら、村上の言う卵とは常に一個でしかない。孤立した絶望を抱え込んだ卵、というイメージで、村上は人間とはそういうものだと語ろうとしている。それは村上春樹の文学のテーマでもあるが、ただ、政治的なメッセージを帯びてしまうスピーチでは、その孤立した卵の比喩は、どこまで届くだろうか。

 人間とは弱い者である。その弱さの側に立つというメッセージと、圧倒的な暴力にさらされている力を持たないものの側に立つというメッセージとでは明らかに違いがある。パレスチナ人が力を持てば、たぶん人間の弱さを否定して戦うだろう。そして勝つために自らをシステム化するだろう。卵をシステム化し戦車に対抗する手段がないわけではない。システム化とは、孤立しない戦略のことであもある。卵も組織化されれば強くなるだろう。それをやめろ、ということは誰にも出来ないはずだ。

 村上春樹のスピーチが感動させた相手、つまりそのメッセージがほんとうに伝わった相手は、イスラエルの暴力に虐げられた弱い卵のようなパレスチナ人ではなく、その暴力の側で弱い人間の部分を隠しきれないでいるイスラエル人である、ということである。このスピーチをかなり冷ややかに見れば、このスピーチによって多くのイスラエル人は救われたろう。たぶん、イスラエル人だって、一人一人は弱いし弱い者に同情的でありたいと思っているが、自分たちの作ってシステムによってそれを表現できないでいる。だから村上春樹という他者にそれを語らせたのである。そして、パレスチナ人は、村上のスピーチを聴いても感動しないだろう。自分たちはただ壊されるだけの卵ではなく、今は卵でもいつかは壁に対して復讐すべきもっと強い壁にならなくてはと、強い怒りと共に考えているだろうからだ。

 だから、このメッセージに意味はないということを言いたいわけではない。ただ、このスピーチが平和に結びつくなどという幻想を余り持たない方がいいと思うだけだ。このスピーチはスピーチとして感動的だし、イスラエル人にも、実際は壁の側で生きている(村上春樹もそうだ)多くの先進国の人々を感動させるだろう。

 私もそれなりに感動的に読んだが、それは私も人間の弱さを排除する思想やシステムが嫌いだからで、村上春樹と考え方は同じだからだ。ただ、村上春樹が、みんなから受賞式に行くなと言われたので行くことにした、と答えたように、私も、みんなが感動的だとほめると、ついそんな単純じやないよ、と言ってみたくなる。ただそれだけである。

       弱い樹も強い樹もみな梅ばかり

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