オバマの就任演説2009/01/22 00:54

 夜中にオバマ大統領の就任演説を聴きながら、言語パフォーマンスが日本人となぜこうも違うのかと考えてしまった。日本語でこういう演説をするとどうしてもこんなにかっこよくならないのは、何故だろう。話す内容の問題なのか、それても、話し方の問題なのか、それても言語そのものの問題なのか。

 プレゼンテーションの原稿を書いていて、プレゼンの最も優れた例がオバマの演説だというのがよくわかる。プレゼンの基本は、聴衆を見て原稿を読まないことだし、明瞭な口調で明確な分かりやすい内容で、聴衆の反応を確かめながら適宜間をおいて、大事なところは強い口調で、そして、何よりも、自信と熱意を見せること。こういう要素を全てオバマは持っている。ある意味でスピーチの天才と言っていいだろう。

 こういうスピーチの天才である日本人というのを考えていくと、思い浮かばない。よく宗教家で信者をだまして金儲けする教組がいるが、どもそういう人が思い浮かんでしまう。小泉首相は演説がうまかったというが、あれはワンフレーズ演説で長い内容での演説で聴衆を魅了したわけではない。

 演説は聴衆との間にある種の信頼関係や思想上の協同関係を作るものだろう。たとえば、聴衆を戦争せざるを得ないように導く説得力というものが、すぐれた演説(プレゼン)になる。プレゼンなしでは選挙に勝てないアメリカの大統領も、プレゼンで大衆を惹きつけたヒットラーも、その意味で優れた演説家であり、またそういう演説家でなければ政治家は務まらないと言うことである。

 日本は、演説が下手でも政治家として失格ではない。その理由は、国民を戦争に同意させるような民意の形成は、政治家の演説を必要としないからだ。むろんそれなりのプロパガンダはあるとして、何となくそうせざるを得ないという雰囲気が徐々に形成されて、いつのまにかそうなってしまって逆らえない、というように民意が形成される。

 つまり、日本の政治家は国民に向かって、こうすべきだと余り言わない。こうしないとこうなってしまう、というようにある種の雰囲気作りの発言を繰り返す。だから、今度の消費税のことも、やむを得ないという雰囲気をどう作るかという発言だらけで、オバマのように、国民をリードしていくという立場からものを言わない。

 これは共同体の合意形成文化がまだ残っているからで、ある意味では日本の伝統文化だと言っていいだろう。わたしはこれを必ずしも悪いとは思わないが、ただ、オバマのようなかっこよさはないなと思うのである。

 悪いと思わないというのは、例えば、オバマのあの説得力で、国民よ戦争しよう!と演説されたら、みんな戦争に走るだろう。そういう怖さがああいうプレゼンにはあるのである。麻生首相のいいところは、麻生首相がそう言ったって、誰も馬鹿にして言うことを聞かないところである。政治家としてはだめかも知れないがそれはそれで全部悪いわけではないのだ。(むろん日本の合意形成が平和的だということではない。日本人はオバマになれないということを言いたいだけ) 
 
 オバマの演説から彼の誠実さはよく伝わった。プレゼンで大事なのはその人柄をどう出すかである。ブッシュは悪く言われたがその憎めない人柄だけは愛された。アメリカ人は愛嬌はあるが政治家の器でなかった大統領に懲りて、誠実な人柄でいかにも政治家らしいスピーチのうまい大統領を選んだと言うことだ。

 マスコミはオバマを誉めみんな日本と比べてうらやましいと評しているが、私はかならずしもそうは思わない。あのかっこよさはやっぱり日本の伝統文化には合わない気がするのだ。

                        新しき大統領出で厄落とし