プレゼンテーション2008/12/20 01:30

 今日は会議だけだが、出校前に神保町の本屋で、レポートの書き方とか、プレゼンテーションマニュアルの本など買い込む。いままで集めたものを併せると10冊以上になる。一応全部読んで、基礎ゼミナールのテキストを書かなくてはいけない。

 プレゼンテーションのマニュアルは書く予定ではなかったのだが、必要ではないかという声があり、書くことにした。それにしても、プレゼンテーションを教えるということは、大変なことになってきた気がする。

 日本人の美徳に不言実行というのがある。プレゼンテーションというのはこの美徳を真っ向から否定するものである。黙っていてはいけない、積極的に言いたいことを伝え相手を説得しないとこの世の中生きていけないという、そういう論理なのだ。

 競争社会でありかつ情報社会では、人の存在そのものが一つの情報であり、その情報は誰かに発信され認知されなければ無いに等しい。つまり、黙っていたら存在したことにならないということである。こういう欧米的な人間味のないコミュニケーションの方法に、ついに日本は侵略されてしまったというわけだ。共同体を解体する資本主義とグローバリズムを生きる以上、避け得ないことではあるが。

 アメリカの大統領選挙は、まさにプレゼンテーションの見本市のようなものだった。声、外見、話し方、内容、どれもが競争相手に勝ること、これがプレゼンテーションの核心である。競争相手がいなければプレゼンテーションなんて必要ないのだ。どうすれば大衆に自分の方が優れていると思わせられるか。それがプレゼンテーションの技術なのである。

 オバマはプレゼンテーションにおいて相手に勝っていた。ただし、外見や話し方のうまさだけで勝てるのか。そこが問題だ。そう簡単には表に現せない、思想や人柄、内面はどうなのか。プレゼンテーションのマニュアル本を読むと、最後はそれが決めてだと書いてある。

 例えばそれは熱意のようなものであったり、誠実さであったり、目の輝きだったりする。計算を超えたパフォーマンスということか。プレゼンテーションとは説得するパフォーマンスをマニュアル化することである。それなのに、結論はマニュアル化出来ないところが重要だとする。結局そういうことになるだ。

 でも、である。プレゼンのマニュアルは基礎的な文章の書き方みたいなものなのだ。この時代では。自分をアピールするパフォーマンスがである。考えてみたが、授業もプレゼンテーションだよなと思う。とりあえず技術やマニュアルが必要だ。が、結局ものを言うのは、マニュアルを超えた教員の熱意や生き方である。

 ところで、しゃべるのが上手でなく戸惑いながら説得していく方法というのがあってもいいと思う。それもまた一つのパフォーマンスではないかと思う、そういう控えめなプレゼンテーションのマニュアルが作れたら面白いのではないか。などと考えるのだが、年末年始はこんなことを考えながら仕事である。

                       一人では生きるのつらいぜ年の暮れ

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2008/12/20/4017671/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。