文化とは2008/11/06 23:00

 今週もへとへとである。授業はそんなに持っていないのだが、それでもけっこう準備に時間がかかる。会議は相変わらず多い。

 昨日の午後東京駅近くに昼頃抜け出して行ってきた。姪が勤めている会社がイベントを企画していて、社員は客を集めなくてはならないらしい。ノルマが決まっていて、それで、おじさん来てくれと言われて行ってきたというわけ。つまりサクラである。

 営業も大変である。何でもこの会社では、社員全員集められて、経営が厳しいので40代以上は営業になるか、第二の人生を探すか選択して欲しいと言われたそうな。超大変と姪はいつものギャル言葉で語っていた。

 そういう企業に比べれば、わが大学は勤め先としては悪くはないが、2050年には入学者の人口が半減すると言われている。その意味では教育分野は典型的な斜陽産業であるには違いない。大学生が半減すれば半分の大学が潰れてもおかしくないのである。潰れる大学に入らないようにするにはどうしたらいいのか、と考えるのは経営者の仕事だが、何故か、そういう会議にここんとこ私もかり出されている。

 今私たちに決定的に欠けているのは余裕である。私にもないし社会にもない。余裕を作るためには必要以上の欲望を持たないと意志的に生きることであろう。欲望が持てないというのと、持たないというのとは違う。持てなくても、持たないのだと思うことが大事だ。

 今日授業で、少数民族の文化を教えていてこの持てないと持たないとの差を説明した。持てないは文化ではないが、持たないは文化なのだと。つまり、厳しい自然環境にあって生産性の低い暮らしで欲望が持てなくても、自分たちは欲望を必要としないのだと説明づける言説を生み出せばそれは文化なのだ。

 例えば怒江の少数民族は、自分たちの貧しさを起源神話のなかで、漢族はかしこいから支配者になったが、自分たちは失敗したりかしこくなかったからここで生活しているのだと語る。神話で語るということは、貧しさは自分たちのアイデンティティだと納得することである。これが文化である。

 こういう文化は、前向きな生き方を邪魔するかも知れない。が、前向きな生き方がもたらす弊害をあらかじめ防いでくれる。現代社会で、傷ついたり心の病んだ人たちに必ず言う言い方がある。失敗するのが人間なんだとか、誰だって欠点を持っているとか、ダメな自分を許容しろとか。それって、結局、自分のマイナスを自分のアイデンティティとして語っていく怒江の少数民族の人たちのように生きろ、と言っているのと同じではないか。

 そう考えれば、彼等の文化はある意味不合理なものかも知れないが、一方では、充分に現代に必要とされるものなのだ。

 ここんとこ、目と歯の治療で化膿止めの抗生物質を一週間ほど飲み続けているので、ずっと酒の類を飲んでいない。酒を飲まないと確かに仕事は出来るが、時々どっと疲れが出る。酒の効用というのもあるのだなと実感。

                         立冬やこんな身体と生きてけり

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