久しぶりの休み2008/10/23 22:03

 今週は学園祭の後の休みの多い日である。月、水、木と、学園祭の後片づけ、創立記念日と休みが続き、久しぶりに山小屋へ。今ちょうど紅葉の真っ盛りで、天気もよく、著とした休暇となった。が、やるべきことはたくさんある。冬を迎える準備をしなくてはならない。

 まず薪ストーブの煙突掃除から始まった。屋根に登り、煙突の天辺の覆いを取ってそこからワイヤブラシを入れて煙突内のすすを落とす。かつては業者に頼んでいたのだが、煙突掃除用のワイヤブラシを借りられたので自分でやることにした。3万くらいの節約になる。

 それからタイヤをスタッドレスに替えた。少し早いが、今やらないとたぶん必要な時期には忙しくて出来ないと考えたからである。これは、諏訪インター近くのイエローハットに持ち込んで替えてもらった。工賃は2100円である。川越に居たときはタイヤは自宅に置いておいたが、今はマンションなのでタイヤの置き場所がない。それで山小屋の敷地にタイヤ置き場を作ってそこに保管してある。道路から山小屋の側は低くなっているが、その山の斜面を少し平にして枕木を並べて保管場所を作った。5万円かかった。

 スタッドレスタイヤは今度の冬で4シーズン目である。たぶんこんどで限界だろう。以前5シーズン使ったことがあるが、最後のシーズンはさすがにタイヤが痛んできて空気が漏れ始めた。だいたい、車は一年で2万キロは乗る。その半分はスタッドレスでの走行である。だいたい11月に替えて5月の連休頃にノーマルに替える。だから、4シーズン乗れば4万キロになるわけで、これだけ乗ればもとは取れる。来年はスタッドレスを五月以降にもはき続け、来年の冬に新しいのと買い換える予定。

 薪小屋の前に積んで置いたままの薪用の伐採した樹木を、チェンソーで輪切りにする作業をした。もう一年ぐらい積んだままなので樹自体が腐りかけていて、半分は薪にはならないようだが、そのままにしておくことも出来ないので、切り始めた。道路際には直径が40センチあるような丸太がかなり積んである。薪用にと、樹を伐採しているところがあるともらってきて積んで置いたものである。これを敷地の中に下ろして薪用の大きさに割らなければならないのだが、とてもそんな暇はない。来年までそのままだろう。

 結局腰を痛めた。だいたいいつも腰を痛める。ただ深刻な腰痛ではなく、ふだん使わない筋肉を使うことで痛めたのでしばらくすれば直る。ただ、その間、いろいろと不自由である。

 10月半ばは私と奥さんの誕生日が続く(一日違い)。二人とも過ぎてからそのことに気付いた。奥さんは還暦である。私は来年。思い出したくもない誕生日である。今日は昼頃に山小屋を出て帰路につく。明日からの雨で紅葉も終わりだろう。途中小淵沢のリゾナーレというホテルのショッピング通りにある丸山珈琲に寄り、いつもの珈琲を買う。軽井沢に本店があるが、ここに支店が出来たのでここでいつも買うことにしている。美味しくて案外に安い。

 いつも珈琲天のあるショッピング通りにチビを連れて行くが、通りかかった女性達からめちゃくちゃかわいいと言われて得意そう?であった。いつもの仰向けになって背中を地面にぐりぐりするポーズで笑わしていた。

 三浦しをんの推薦図書を読み進めているが、今週は中井英夫の『虚無への供物』と、ジョン・クラカワー『信仰が人を殺すとき』を読了。しかし、何でこんな重たい本ばかり推薦するんだ。『信仰が人を殺すとき』はモルモン教原理主義の狂気を扱ったノンフィクション。モルモン教の歴史とその実態が実によくわかる。

 モルモン教原理主義は一夫多妻を神の教えとして頑なにまもる人たちで、現在のアメリカにもけっこういる。1830年代に創始されたモルモン教は最初は一夫多妻を実行していた。その反モラルによって国家に弾圧され、主流の教団は一夫多妻を否定している。が、分派した多くの原理主義教団は今でも実行していて、女子が13歳になると父親の世代と強制的に神の意志として結婚させられる。中には自分の娘と結婚する親もいる。小児への性虐待として告発されるケースが今でもあるという。

 原理主義の人たちは神の啓示を常によりどころにして行動している。もともとモルモン教は、神の啓示を重視する教団で、神の啓示を受けた信者が預言者を名乗り、分派し新しい教団を作るという事が繰り返された。それでモルモン教には約1万の教団があるという。

 その原理主義の信者で一夫多妻を信奉するある信者が、それを認めない一族の家族とトラブルになり、義妹とその赤ん坊を神のお告げによって惨殺するという事件が1984年に起こる。その事件を通してモルモン教の歴史を明らかにしながら、宗教と倫理の問題に鋭く迫っていく。啓示とは憑依のことであるが、憑依や宗教を研究の対象としている私としては、すごく面白い本であった。三浦しをんに感謝である。

   無花果の砂糖煮ひとつ出されけり

学会のシンポジウムが終わる2008/10/26 10:59

 昨日アジア民族文化学会の大会が勤め先の大学で開かれ無事終わる。「続アジアの歌の音数律」というテーマでのシンポジウムである。発表者は6人で、アイヌ、台湾、ホジェン族、チュアン族、モソ人、漢族と、多岐にわたってそれぞれの民族の歌の音数律が紹介された。

 結論は出ないが、音数律という概念でアジアの歌文化をくくることには無理があるということだけはわかった。司会の私としては、まとめるのに苦労したが、実のあるシンポジウムになったのではないかと思う。

 この成果は本にして出版予定。ただ、「アジアの歌の音数律」では題名が良くない。音数律はわれわれが考えるより狭い概念である。いいタイトルがないか、それを見つけるのがこれからの課題である。

 懇親会は20名が来た。出席者の半分は来て居たのではないか。盛況であった。学会代表の私としては、こういう大会を成功させることに責任を負う。その意味で責任が果たせて少しほっとしたというところ。

 懇親会が終わって、ある出版社から出す予定の「比較伝承文学」シリーズ二冊の原稿を頼まれた。一冊については私が編者にさせられた。中国少数民族の神話について書かなきゃ行けないらしい。どうも、最近、私は管理職になって雑務ばかりしていて、ちゃんと研究していないようなので、原稿の仕事を与えて研究させようという陰謀らしい。

 ということで、来年の原稿書きの仕事がかなり増えた。今年は楽だなあと思っていたがそうは問屋が卸してくれない。来年は倍返しになって忙しくなりそうである。久しぶりに夜遅く帰る。テレビをつけたら巨人が日本シリーズ出場権を得たというスポーツニュース。あれだけの高年棒の選手を揃えたから当然だろうが、あれだけ揃えたのに何でこんなに苦労するのだという見方もあるだろう。メジャーでは低年俸の選手が多い去年最下位のレイズがワールドシリーズで頑張っている。こういうチームを応援したくなるのは人情である。

 今朝野川沿いをチビと久しぶりの散歩。小田急線の橋桁の手前に喜多見不動があり参拝。橋桁をくぐって、国分寺崖線の緑地帯を突っ切る細い道を上がり、小田急線の上を横切る道路に出る。線路の上は不動橋で、成城学園前の駅から不動橋まで線路の上は貸農園の畑になっている。不動橋からの眺めはとても良い。天気の良い日は富士山が正面に見えるそうだ。崖線の上の道に沿って帰宅。

                          参道は末枯れてゐる不動尊

ものもらい2008/10/28 22:48

 どうも右目の下まぶたに違和感があって、また結膜炎かなと医者に行ったら、これは「ものもらい」ですよ、と言われた。子供の頃かかった記憶があるが、この歳でものもらいになるなんて。三浦しをんとの対談が次の日曜だと言うのに、片目を腫らして行くのか。情けないことである。

 医者に抗生物質を処方してもらい、何とか早く直さないと。実は昨日は歯医者に行って虫歯の治療をしてきた。先週、奥歯の神経が化膿しているらしいと言われて、歯肉を切開してレーザーを照射しましょう、などと言われていたのだが、前歯に虫歯が見つかって、こっちが先ですね、と言われて虫歯の治療となつた。

 「ものもらい」は病名は「麦粒腫」と言うらしい。「ものもらい」は俗語で関東圏を中心に広がっている言い方らしい。全国では他の言い方に「 めばちこ」、「めばち」、「め いぼ」、「めぼ」などがある。「ものもらい」の由来は、「三軒の家から米をもらって食べるとなおる」(福島県東白河郡)「よその家へ乞食に行くと、めこじき(ものもらい)が治る」(岐阜県土岐市)などがある。(以上はロート製薬のホームページから)

 乞食に行くと治るというのがおもしろい。おそらく、忌避される、ということにひっかけた由来だろう。つまり乞食はみんなから忌避されるからそのように忌避されて治るようにと、乞食の名がついたということのようだ。推測だが。

 ということは、人に忌避されることをすると治るのかも知れない。抗生物質より効き目があったりして。でもそんなことむずかしい。無意識に行動することで忌避されることはよくあるが、忌避されるように行動するということはかなりの勇気がいる。まあ抗生物質に頼るのが無難だ。

 日曜から丸山健二『水の家族』、大西巨人『神聖喜劇』を読み始める。神聖喜劇は全五巻、一巻がそれぞれ五百五十頁はある。まず第一巻を読み終え、第二巻目に入ったが、さすがに授業の準備や雑務ではかどらない。『水の家族』はすらすら読める。若いときに丸山健二はよく読んだが、最近は読んでない。そうかこういう小説を書くようになっていたのか。『水の家族』は死者の語りで構成された物語だ。

 人知れずに死んで朽ち果てていく屍体となった死者が、霊となって自分の家族の一人一人に寄り添い、家族の一人一人のこの世の姿を語っていく。こういう語りは初めてで、刺激的であった。これはまさに文体の力でなりたつ小説である。

 それにしても『神聖喜劇』はどうする。軍隊という非日常の世界に入り込んだ虚無主義者のインテリが、自分の自意識を全開にして、狂気の日常を微細に描いていく。今週中に読めるか?無理だろうなあ。

                        行く秋や妄想を出で水を飲む