ボランティア2008/10/03 23:49

 アジア民族文化学会の案内の発送を今日終了。私は10時前に来て封筒詰めの作業。E君や会員の大学院生にも来てもらって手伝ってもらう。ポスターの発送は月曜である。午後は教養教育の人材養成目的の文書を作成する会議。この手の会議が今週は続く。

 今週はさすがに疲れた。どこも同じだとは思うが、私の学科もご多分にもれずいろんなトラブルを抱えていて、その解決やら後始末やらで奔走した一週間であった。管理職というのはこういう時のためにあるのだと痛感。こういう時に私がその職にあることの不運さを嘆くしかない。

 教育の場は、たくさんの人間の将来が投資されている場である。一方で厳しい競争の場でもある。当然、教育される側は競争の結果順位づけられ、何人かは傷つく。教育する側はそういう厳しさを肯定しながらも、同時にその傷をどう癒やしどう立ち直らせるか考えなければならない。

 一方、教える側だって大いに傷つく事がある。教える側もまた競争の原理はあり、みんながうまくいっているわけではない。教育する側はみんな大人であるので、こっちが傷つくとやっかいである。傷ついているのに傷を見せまいとするからである。大人はおおむね素直ではない。

 ところで私は傷ついてばっかりで素直でないから、ストレスがたまるばっかりである。ただ、人よりはストレス耐性はあるらしく、今のところ何とか無事である。この先はわからないが。

 私はこの一週間に、何人かの人に学生や大人も含めてだが、相手が落ち込むような内容の話をし、また私が落ち込むようなことを話された。バランスはとれているのだが、個人的なことではなく仕事や教育上のことではあるがつらい一週間であった。

 私は常々仕事というのは半分(3分の1でもいいが)はボランティアなんだと言っている。というのは、どんな仕事でもそこに人が関わる以上、そこには他者への奉仕という部分が必ず発生する。それを給料に換算したら、とてもじゃないが仕事なんてやってられなくなる。つまりどうしてもそれは給与以外の仕事であるのに、給与労働とは切り離せないものなのである。

 とすれば、そういうのはボランティアで、仕事というのはこういうボランティアはつきものなんだと覚悟するしかない。そう思わないと、これっぽっちしか給料もらってないのに何でこんなにみんなのために働らきゃならんのだと不満が出てくる。そうするとストレスだらけの毎日になる。
 
 ボランティアだと思えば、ボランティアが嫌いな人でも仕方ねえなあで気持ちの整理がつく。好きな人なら、楽しく働けるというわけだ。ちなみに、私はボランティアは好きではない。こうやって生きている事がすでにボランティアみたいなものだから、今更ボランティアなんてやりたくないという気分なのである。だから、仕事が抱え込むボランティア活動は、まあこれが俺の人生なんだとあきらめている。

 言っておくがボランティアというのは給与を払う資本家に施すものではない。他者と関わらない仕事はない。そうすれば助けたり助けられたりする関係が嫌でも成立する。その関係は労働価値に換算されないはずだ。が、それなしに労働が成立しないとすれば、その価値は、無償の労働価値であり、ボランティアとでも呼ぶしかないものである。

 もう一つ言っておけば、生産のための労働価値を否定してここでいうボランティアのような無償の労働を価値として独立させるのは、ほとんど宗教である。だから独立させてはいけない。人は生活するために働いているのであって、他者に奉仕するために生活の糧を得ているわけではないからだ。

 低い給与で過酷な労働に人が耐え得るのはこのような無償の労働価値があるからでもある。その意味ではボランティアは資本家を利するものであるが、しかし、だからといってそれを無くしたら、労働それ自体を非人間的なものへと疎外する。

 難しい話になってきたが、要するに、たかが仕事のために人の足を引っ張り合って自分の品格をおとしめるより、みんなで助け合いながらわいわい楽しく仕事をした方がいいだろう(たとえ楽しそうな仕事でなくても)ということである。楽しく仕事をするにはある程度のボランティアが必要だということだ。

 さて私は、今、楽しく仕事をしようと必死になっているのだが、どうもうまくいかない。私のボランティア精神はどうも空回りしているらしい。私がボランティアが嫌いだと言うことをみんな気づき始めたらしい。

                     落ち葉を踏みしめて踏みしめていく