教育って何?2008/09/14 12:59

 金曜(12日)・土曜(13日)は出校。金曜は雑務。土曜は研究会。学校関係の書類作りがけっこうあってなかなか大変。特に、人材養成目的についての作文をしなくちゃならないのが差し迫った課題である。来年、大学基準協会からの評価を受けることになっていて、それへ向けて、いろいろと自分たちの大学のありかたを検討したり整備したりしなければならない。

 人材養成目的の作文もその作業の一つである。これは、大学全体から学部学科までこと細かに作文していく。大事なのは、整合性がとれて一貫していること。つまり、企業の事業方針みたいなものだから、これが一貫していないと、企業としてなら失格というわけだ。教育機関のアイデンティティを明文化して公表しろ、というのが文科省の方針で、そういうのは大学創設者のお言葉として額に飾ってあるよ、というのではだめなのである。

 個人の業績報告書というのも事細かに書かなくてはならない。私の場合、1年に5本くらい論文を書いているから書類作りがけっこう大変である。教育業績というのがあって、授業でどういう工夫をしたとか、どういう評価があったとか、大学は私の能力にどういう評価をしているかとか、そんなとても書けないことまで書く欄があって、とにかく書かなきゃいけない。授業をただやっていただけではもうだめだということである。

 こういうことに労力を使わざるを得なくなったのは、要するに成果を上げなければ存在する価値がないという時代の風潮が教育界まで及んできたからだ。成果とは、競争に耐えて勝ち抜くことだが、問題なのは、その勝ち抜いた経緯を意識化し、それをマニュアル化して方法論として公表しろと、強制されていることだ。株式会社なら、強制されることに一定の意味がある。方法化は利益を確保する確かなマニュアルになるからだ。が、教育はどうか。

 教育に於ける利益とは、本来は教育力の向上であって、質の高い公平な教育を国民に与えられるかどうかである。が、現実はそうではなく、個々の教育機関が、潰れないために他の教育機関より優位な地位につくかどうかということになっている。確かに、教育機関に競争原理が働けば質の高い教育をするところが勝ち残る、ということはあり得るから、悪いことではない気がするが、その場合の、教育成果の物差しは、極めて分かりやすく目に見えるものが基準になる。例えば全国テストでどれだけ高い平均点をとったとか、何人の合格者を出したとか、アンケートの満足度は何割かとか、競争率は高いかどうかとか、である。

 とすると成果を上げるための方法論とは、この人数の合格者をだすためにはこういう授業の仕方をしなくてはならない、ということになる。

 私は、文学を教えているとき、学生にこの文学作品が君たちの為になるときは、就職するときというよりは、何らかの事情で仕事を辞めざるを得なくなり、これからどうしていいか途方に暮れるときだ。そういうとき、人より本を読んでいる人は、精神的な強さを身に付けているから自分を励ますことができる、と話す。文学を教えるということは、そういうことであって、何人の合格者を出すなんていう教育には向かない。つまり、教育に於ける利益は、そういう簡単には数値化できない領域を含む。ところが、そういうのを無視して成果を数値化し明文化しろというのが昨今の教育改革の流れである。まったく困ったものである。

 目に見えない領域を教えていくこともまた授業アンケートで高い満足度の数値を獲得しなければならない。そうでないと、その目に見えないことは学生に伝わらなかったと評価される。そんなことはあるものか。自分が学生であった時を考えればわかるが、影響を受けたり人生の指針になった言葉は、必ずしも人気のあった先生の言葉ではない。人気はなくても一部の学生からは尊敬されていたそういう先生の言葉が重い意味を持った。最近の風潮は、そういう先生を教育の現場から排除し、メディア映りのいいような人気のある先生ばかりがもてはやされる。

 さて、私は人気はなくても一部から愛されるような教員であればいいと思っている。みんなからあの先生はだめだと言われたら、退くしかないが。だから、今管理者の立場で、教員に対して、アンケートは確かに大事だけど、あまり気にせずに、一部の学生からは尊敬されるようになって欲しいとそれとなく言っている。みんなの人気者になるのは、教員の才能とは別の才能の問題である。そういうのも必要とは思うが、みんなそういう教員になる必要はない。

 ところで、今私が書いている書類は、正確に言えば、こういう問題とは直接は関わらない。これは私どもが所属する教育機関という企業を、潰さないで維持するための作業なのである。むろん建前は教育の向上のためである。が、意義はあるとしても、教育の本質にかかわる作業ではない。教育はかつての寺子屋のように、教員と学生との人間的な関係に基礎をおくものだ。ところがその関係が大規模になり複雑になると、人が人を教えるのではなく、組織がマス化した大衆を教えるということになる。だから、マニュアルや方法論が必要となる。その組織や大衆化した学生のための作業なのである。

 人と人との関わりをおろそかにしない教員であって、教えることにちょっとは情熱があって、自分の研究テーマに対して探求心を失わない教員であれば、人気がなくてもいいではないか(これだけ満たせば絶対人気はでますけどね)。

                夏終えて今日も昨日も風が吹く

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