イタメシ食べて読書会2008/08/01 00:03

 今日は前期最後の日。私は授業が一つあってテストである。問題の概要は先週示しておいたのでけっこう書けていた。仮面祭祀についての授業なのだが、何故われわれは仮面を必要とするのかという本質的な問題も出す。民俗学の授業だが、民俗学ってけっこう哲学的なのである。

 五時から自己評価・自己点検報告書作成の委員会。私が責任者なので、報告書の目次を作って、各委員に分担案を示す。大学関係者ならこの作業の大変さはおわかりでしょう。

 それが終わって、わが学科の読書委員と一緒にやっている読書会に参加、という予定だったが、会議が長引いて読書会は終わっていた。それで、その後、みんなで神保町のイタメシ屋で食事会。もともとイタメシ食べて読書会という予定ではあった。総勢7名である。

 読書会の本は伊坂幸太郎の『アヒルと鴨とコインロッカー』である。私はついでに村上春樹の『パン屋再襲撃』も読んでおいたらと言っておいたのだが、村上春樹の方までは話は展開しなかったようだ。『アヒルと…』は、主人公が、本屋を襲って広辞苑を奪おうと誘われるところから始まる。何故広辞苑なのかという説明はなく、それは後から明かされる。

 『パン屋再襲撃』は夫婦が夜中に猛烈な空腹に襲われ、パン屋を襲撃しようと町に出かけ、散弾銃を持ち目出し帽を被って、パン屋がないのでマクドナルドを襲撃し、ハンバーガー三十個を強奪するという話である。村上春樹の方は、何故パン屋を襲撃するのかその理由は分からない。本人達も理由など考えない。ただ、われわれはこういう不条理に時々引き込まれるのだということだけを描いているといってもいい。

 伊坂幸太郎の『アヒル…』は明らかに『パン屋再襲撃』を意識した出だしである。が、決定的に違うのは、その理由が最後に解き明かされることである。そして、それを解き明かすプロセスがこの小説の全体の物語になっているという点だ。その意味でミステリーのようでもあり、エンターテインメント小説のようであもある。不条理が排除されているところが決定的な差と言ってもいい。

 どっちが面白いという比較は意味がないだろう。最初から表現の水準が違うのである。ただ、私は『アヒル…』にあまり惹かれなかった。村上春樹と比較してということではなく、この種の小説に期待する爽快感に欠けているというのがおおきい。爽快感は私の好みなのだが。最近のこの手のストーリーテラーに共通していえることだが、村上的なのりの文体で実に巧みに複雑な筋を織り上げていく。その物語創作能力はたいしたものだと思うのだが、何かが足りない。結局、人間が描けていないということなのだろうか。人間が描けていないと自分を登場人物に移入出来ないのである。

 いかにも人間らしく描けとか、リアリティがないとか言うのではない。村上春樹の描く人間はリアリティのない非日常的な存在だが、それでもその人物に転移できるのは、その描かれ方の中に、どこか説明されない余韻のようなものがしっかりと抱え込まれているからである。そういう部分があると、自分の内面を重ねるように重ねられるのだ。

 アメリカのハードボイルドでも、SFでもそういう人間の描き方はうまい。その点、最近の若手の小説はまだまだだなと思う。ただそれはすぐにきれてナイフを振るってしまうそういう若者の誕生の問題と重なるのかも知れないが。

 読書会を終えて帰途についたが、千代田線で代々木上原に出ようとしたら、小田急は不通とのアナウンス。仕方なく神宮前で降り、原宿でJRに乗り新宿へ。京王線に乗り換えて仙川まで行った。そこから歩いて帰ってきた。25分かかったが、イタメシ屋でかなりカロリーの高い食事をしたので丁度いい運動であった。

               夏の夜に魂離(あくが)るる読書かな

「千と千尋」の授業2008/08/02 23:25

 今日明日とオープンキャンパスである。私は朝から出校で、個人相談。いわゆる営業である。受験生がいろいろと相談に来るのでその相談に乗る係り。案外この対応が良かったから受験を決めたという受験生もいるので、手を抜けない。

 10時から3時までけっこう途絶えることなく相談者はいた。先日の新聞に全国の短大の70%が定員割れだという記事が出ていた。四大もそうだが、人気のないところはますます落ち込み少数の人気のあるところに集中する傾向が一段と強まったといえようか。とりあえずわが短大は人気のあるほうにいる。今のところは。

 明日は模擬授業である。ここ毎年「千と千尋の神隠しの文化論」というのをやっている。案外好評で、もうそろそろネタも古くなったし終わりにしようか、とも思うのだが、ついやってしまう。この映画は、物語の構造としても、あるいは民俗学のモデルとしても良い教材なのである。

 トンネルから異界に入って出てくる構造は異界訪問譚であって、神話のイザナキの黄泉国訪問譚と重なる。神々のいくつかは仮面をつけて登場するが、その解き明かしも面白い。春日神は、二の舞の雑面、千の力で生き返るくされ神は翁面。その湯屋の場面は冬に行われる湯立神楽と同じである。神々にお湯を浴びてもらい生命力を回復してもらうというものだ。

 千尋が千になり、親を助けようと湯屋で働き、ハクが好きになりやはりハクを助けようと双子の湯婆のもとに出かける。最初わがままで甘えん坊であった少女は確実に成長する。当然、世界的な物語の構造である、少女成長譚、つまり通過儀礼の物語の構造がある。愛の力で困難を切りぬけるのは、例えば西欧の異類婚物語である「美女と野獣」と同じである。

 むろん、「千と千尋」はそんなに単純な物語でもない。例えば成長したはずの千尋は、帰りのトンネルで母親の服を掴んで離さない。最初の甘えん坊の千尋に戻ってしまっているのである。それにしても本当に最初の千尋に戻ってしまったのだろうか。異界でのあの成長は何だったのか。むろん本当に元の世界に戻ったのかどうかは分からない。いろいろヒントは隠されている。例えば髪留めなど。

 まあ授業の内容はこのくらいにしておこう。ほとんど解き明かしてしまっているのだが。結論を知りたい人は、オープンキャンパスに来て下さい。

         マヨヒガに冷えたビールが置かれけり   
(マヨヒガは迷い家。遠野物語に出てくる異界の家)

大人になること2008/08/04 00:11

 今日の模擬授業はなかなかうまくいったと思う。感想を書いてもらったが、「涙がでそうになった」という感想もあり、私の授業の中では最高に近い評価。

 一時間の授業だが、けっこう苦労しているのである。まずパワーポイントを使う。映画の映像を使う。祭りの映像も見せる。資料も配る。それらを適宜織りまぜながら、多少の笑いもとる。私の授業で笑いを取るのはほとんど無いのだが、これに関してはいくつかあるのである。いつもすべるのだが、今回はすべらなかった。安堵した。

 涙が出そうになった理由は、「千と千尋」の映画の一つのメッセージを、子供であることを失う、という点に絞ったからである。受験生達は誰でも子供であることを失いながら受験勉強をしている。誰も失いたくないと思いながら、それに抵抗できずにいる。異界に行けるのは子供なのである。ほんとは誰もが異界に行ったことがあるのに、それを忘れてしまう。それが大人になること。と説明していけば誰もが自分のことと重ねていく。そしてそのことに切なくなっていく。

 でも必ず何時か何処かで異界に行ったことを思い出すはずだ。と私は元気づける。何故なら異界に行った証があるからだ。とここまで言えばその証が何であるかは「千と千尋」を見た人なら分かるだろう。

 明日はまた出校。いろいろとやることがあるのである。暑い中、そろそろ身体も限界に来たらしい。が、そんなことも行ってられない。異界に行った経験など死んでも思い出せない私は、ただ、この世の仕事に精を出すだけである。 

夏休み異界に集う児らの声

押井守と宮崎駿2008/08/06 18:29

 4日(月曜)に出校しそのあと山小屋へ。途中、ものすごい雷雨。中央道一時は水面の上を走るという状態だった。夕方五時に調布インターを入り、七時頃に韮崎インターで降りる。それから下道の20号線を走る。

 実は、こうするとかなり高速料金が安いのである。半額になる。通勤割引といって、都内から百キロまで朝と夕方の時間帯は半額になる。韮崎がちょうど百キロ内なのである。そこで降りて再びのる手もあるが、同じETCカードではだめなので、例えば次のインターまで下道を走ってのるという手もある。こうやってみんな高速道路代を節約しているのである。

 さすがに山は涼しい。が、体調が思わしくない。疲れが出たというところか。今日まで何もしないでいる。東京は雷雨で大変そうだ。そのニュースばかりだ。やることがないのでテレビばかり見ている。中国黄土高原の影絵一座の巡業を追いかける番組を今日の夕方やっていた。

 それにしても黄土高原はすごいところだ。人々は崖地に横穴をくりぬいて住居(ヤオトン)にしている。道路は物凄い土埃。畑にはトウモロコシが植わっているが、こんな土地によく育つものだと思うほどの光景だ。日本をおそう黄砂の発生地だが、こういうところでも人は生活をしている。

 こういう貧しい地域でも、祭では影絵一座を呼んで影絵を楽しむ村がある。こういう村のおかげで影絵一座は廃業せずにすんでいる。職業柄こういう話は基本的に好きであるし感動する。   

 考えてみれば、前期、私はかなりハードであった。引っ越しもあった。原稿を書くという苦痛はそれほどなかったが、学校の雑務は相変わらずだ。管理職をやっているから、大変でしょうとよく聞かれるが、確かに大変だけれど、そう思ったことは一度もない。というのは、いつも自分の限界ぎりぎりのところで仕事をしていて、その容量の中で仕事をしているだけであるので、特に管理職が大変ということはない。

 むしろ、容量以上のことは出来ないから、管理職の仕事が増えた分、他の研究の仕事が減っているということになり、そのことが残念ということになる。

 ただ、このところ、そろそろ体力も限界で容量もかなり落ちてきた。知らずに容量を超えている、ということもあり得る。そうなるといろいろ面倒なことになるので、少しこれからの自分の仕事のことなど考える時期かなとも思う。つまり持ち時間がそろそろ見えて来たというところか。

 とこんなことを何度となく書いている気もするのだが、何度も書くのは、何をどうするのかまだよく分かっていないからだ。と言うより分かってはいるのだが、それを具体化する心構えがまだ出来ていないのだ。たぶん、まだ自分には猶予があるのだと思いたいのかも知れない。きっとそれは甘いのだが。

 NHKで押井守と宮崎駿の特集をやっていて見る。押井守は奥さんの大学時代の後輩でよく知っているそうだ。あの押井が、とよく言っている。今度の特集はいずれも子どもが主人公。

 子どもが苦難に遭う通過儀礼譚が面白いのは、子どもの擬似的な死が描かれるからだ。 われれの社会にとって子どもの死は不条理である。あってはならないが、よくある。子どもの冒険は死を体験することだ。だからはらはらする。不条理を抱え込むからである。

 死なない子どもを描く押井守の映画は、この不条理を逆手にとって、現代の私達自身の不条理を描いたということか。生きていても死んでも同じではないかと言われて答えが出せない時代の不条理である。

 宮崎駿の映画には子どもの死という不条理は排除されている。ただその排除の仕方がとてもうまい。ディズニーの映画には死という暗さを見せまいとするあるいは見まいとする作為があるが、宮崎のアニメには、そういう作為があまり感じられない。ある意味で死と再生が信じられているアニミズム的世界観がある。たぶんに一神教的な土壌の上に成立するディズニーとの違いがそこにあるのかも知れない。

 アンデルセンの人魚姫は最後に死で終わるが、宮崎駿はそういう結末を拒否したということだ。異類婚が幸福な結末を迎えないのは、人間が死を排除出来ないからである。異類と暮らすことは死と暮らすことだ。それに耐えられないから異類婚はうまくいかない。耐えられるのは、死を怖いと思わない文化である。つまり、神(異類)も人間も別に変わりがないと思われている文化である。

 「崖の上のポニョ」を見ていないので何とも言えないが、もし異類婚が幸せな結末になるというものであるなら、そこには異類と人との境界が低くされていて、神と人との区別が無いような形で死が乗り越えられている。そこの描き方がたぶんもっとも大事なところではないかと、番組を見ながら考えていた。

              夏雲や森の青さやめでたかり

思わぬ展開2008/08/07 23:44

 実はこの一週間、私は自分の心臓と戦っていた。というのは、一週間前、胸が突然締め付けられるように苦しくなる発作に見舞われたからだ。それは2、3分のことだったが、次の日近くの医者に行ったところ、狭心症の疑いありということでニトログリセリンを処方された。

 これは厄介なことになったと思った。狭心症は心臓を動かす冠動脈の一部分がコレステロールなどで狭くなり、それが原因で血液が心臓を動かす筋肉に行き渡らなくなることで起こる。つまり、私の心臓の冠動脈は一部詰まっているということになる。短い発作は狭心症で、時間が長くなると心筋梗塞になる。死につながりかねない。

 私もいよいよかなと正直考えた。狭心症にもいろいろあるのだが、不安定性というのが危ないらしい。山小屋に来て散歩していたら(5日のこと)、息が切れて冷や汗が出てきて気分が悪くなった。これはやばいなと思った。

 次の日、諏訪中央病院に行き心臓専門の先生の診断を受けたところ、狭心症の疑いがあるので明日検査をしましょうということになった。検査とはカテーテル検査で、手首の動脈から細い管(カテーテル)を通して心臓の冠動脈にまで差し込み、そこから造影剤を入れて動脈の映像をとる。詰まっていたら、カテーテルを通して風船をふくらませて血管を広げそこにステントで補強する。ステントというのは、網状の金属製の管でそれを血管の内部に入れて血管を補強するのである。

 たぶん私はステント治療まで行くのだろうな、と思いながら、こういうのは早く治療してしまった方がいのだということで検査を行うことにした。

 今日私は奥さんと病院に行き検査を受けた。検査といっても手術と同じである。何せ動脈に管を通して心臓まで届かせるのである。ただ、麻酔を打つというものではなく、手首にちょっと麻酔を打つだけで時間もそんなにかからないですんだ。

 結果は、あなたの冠動脈はとてもきれいですよ、というものだった。いったいこの一週間の心労は何だったのか。あの発作は何だったのだろう。と思ったが、とりあえず安堵した。

 寿命が延びたという感じであるが、正直に言うと拍子抜けもした。これを口実に少し休めると思ったのだが、そうはさせてはくれない。仕事をしろということかと医者の声を聞いて思った。

 むろん、発作の原因はわからないままだ。疲れやストレスによる心身症ではないかと思っている。とりあえず疲れかストレスが要因だということは確かなようだ。が、心臓の血管が原因でないということだけは確認できた。これだけでも検査の意味は大きい。この検査をしなかったら、私は今度はいつ心筋梗塞になるのやらと思いながら過ごさざるを得ないからである。

 こころなしか疲れも取れてきたようだ。今度の騒ぎは少し仕事をセーブしろというサインだということだろう。

 いくつか学んだことがあった。次の発作が起きたらと、少しは死を考える瞬間があったこと。最近忙しさに紛れて自分の死に向き合うことがなかったが、これはいい経験になった。そして仕事が自分の容量を超えていたということ。やっぱり超えてたんだよな。そして自分はまだ働く運命にあるということ。生きるということの意味がそこにある。辛いことである。そして、諏訪中央病院の心臓の先生は若くてなかなかのイケメンだったが、看護師も含めて親切で、今度何かあったら東京ではなくここで診てもらおうと思ったこと、である。

        夏雲も人の命も風のまま

演技2008/08/10 01:11

 ブログで病の話は書くもんじゃないなと反省。前回の心臓の検査の話は関係者にかなり心配を掛けたようだ。私としては、別にたいしたことがなかったから書いたのだが、当然深刻なときは書きません。

 が、人間の心理として、病気の事を書くのは人に心配して欲しくて書くものかも知れない。とすれば、私もそうなわけで、とりあえず何人かの人には心配してもらえたのだから、よかったよかったということかも知れない。

 秋葉原の自爆男は、掲示板に過激な事を書いても誰も返事をくれなかったことに絶望したというようなことらしい。そう考えれば、こういうブログもコミュニケーションが少しでも成り立つとすれば人の心に深く影響を与えるものなのであって、馬鹿には出来ないということだ。

 掲示板に悪口を書いたと言うことが原因で殺傷沙汰になったり、それを咎められて自殺したりとか、そういう事件が相次いでいる。

 私は少数民族の歌垣取材で出会った悪口の掛け合いを思い出す。男女が時には互いの悪口を歌でいい合う場面をなんどか見ている。ある民族では同性同士が悪口を歌で掛け合う。その言葉は時に相手をかなり傷つける場合もある。しかも、歌の掛け合いだから、そうい悪口は第三者がみんな聞いているのである。

 その悪口で自殺したとか喧嘩沙汰になったという例は聞いていない。むしろ、歌での悪口の掛け合いは、社会での闘争をあらかじめ中和する働きがあると指摘する研究者もいる。つまり、ある程度公的なコミュニケーションツールの上での悪口の掛け合いは、現実の関係を悪化させない文化的仕組みが作用しているのである。

 そういう意味では、ネット上での言葉のやりとり(掛け合い)には、まだ文化的仕組みが無いということだ。文化とは、演技性のことでもある。悪口を言われたら気づかないふり(演技)をすればいい。あるいは、全部悪口自体が演技だと思えばいい。自分の都合のいときに演技でないと思えばいい。そういうのも大事な文化なのだ。そういう文化がないから、ネット上でちょっとでも悪口を書かれたり、自分の言葉への反応がなかったりすると、この世の終わりのように傷付くのである。

 私のブログの文章などはある意味では演技なのである。そう思ってもらってもいい。ただ、そういう言葉が演技として了解されないで、相手の心にダイレクトに届いてしまうような非文化的な空間に放たれている、ということも了解している。そして、そういう世界では、救われたり、傷付いたり、呪ったり、絶望したりとかという、それこそ擦れ合う度に血の滲むような命のやりとりに似た言葉のやりとりがあることも承知している。

 だから言葉には注意している面もある。が、だからこそ、私自身のつまらない日常の出来事をブログの文章に書く意味もあるのかなと思う。演技的な文体に防御されて簡単には傷付いてしまわないようなブログの文章があってもいいではないか。そういうところからにじみ出る本音とか人柄とか、そういうものを味わう文化をもうちょっと鍛えて欲しいとも思う。文学を教えている身としてのこれは本音である。

雷に大樹も犬も身をすくめ

心理学の本は難しい2008/08/14 00:54

 心臓騒動以来おとなしく山小屋で遠野物語研究会の準備などをしている。時折北京オリンピックなどを見ながら。

 開会式はなかなかのスペクタクルだった。屋外での夜空からの撮影があまりによく撮れていたので驚いたがやっぱりCGだった。少女の口パクとか、ミサイルを千発ほど撃って雨雲を雲散させたとか、とにかく話題にことかかないが、かつて世界の中心だったという誇りを取り戻したいその必死さがよく伝わってきた。

 中国チームのユニフォームの色のセンスのなさは相変わらずだが、開会式のパフォーマンスに登場した何千人という演じ手の衣装の色もセンスも見事であった。衣装デザインは石岡瑛子だということで納得。

 それにしても日本の金メダル候補はほとんどアテネで金を取った人たちである。実際今のところ金メダルを取った選手はみんな連覇だ。ということは、この四年間新人が台頭してきていないということである。一種目ならいざ知らずほとんどの種目の金候補が連覇であるということは、ある意味で情けないことだ。日本のスポーツ界では世代交代がなかったのだ。

 テレビにかじりついているわけではないので、金を取る瞬間をライブで見ることはほとんどないが、柔道の谷本選手が内股で相手を一回転させたところはライブで見た。さすがに思わず声が出た。決勝戦で寝技ではなく投げ技で、しかもあんなに見事に決まるのは滅多にない。生で見られてよかった。

 研究会の準備はなかなかうまくいかない。やはり、当初は必要でないと思っていたが、やっぱり必要になった論文とか文献を自宅や研究室に置いて来ている。取りに行きたいがそうもいかないところが山小屋の不便なところだ。それでも何とかとりあえず形には出来た。

 ついでに『心理療法と超越性-神話的時間と宗教性をめぐって』(横山博編・人文書院)を読む。この研究会はユング派の心理学者を主たるメンバーである。そのお一人が執筆しているということや、題名も私の興味や専門と一致するので買ってあった本なのだが、ようやく読むことが出来た。

 分かり易くはない、というより、あえて論理矛盾を意図的に全面に出すことに意義を見出しているような論集である。だから、論理的にまとめようとするとうまく出来ないが、言おうとしていることはだいたいわかる。

 基本的には超越性という概念を、従来の西欧哲学の形而上学的観念としての理解から解き放ちいかに多義的にとらえかえせるか、という試みである。その一つのヒントとして、神話的時間とか、スピリチュアルもしくは魂といったもの、シャーマンの変成意識などをポジティブに扱おうとしている。あるいは、日常の中に沈み込んでいる無意識のようなもの、一人の人間の生をかたち作るある瞬間の捉えがたい営みのようなものまでも超越と呼ぶ。

 が、そうであるとするとき、当然論理がねじれてくる。なぜなら、それらは、言葉で取り出せないことをある意味では本質としているからだ。神話は言葉で紡がれるが、神話的時間と言ったときには、言葉以前の世界が想定されている。無意識もそうである。それらを超越という言葉で掴みだそうとするのはその本質を否定する行為でもある。だから、その論じ方はそれぞれにアクロバティックになる。

 例えば超越でないときに同時に超越はあるのだとかいう論理になる。どうしても、ないけどある、という言い方になる。これは、自己という概念自体なしに言葉を出発出来ないいことの一つの宿命でもある。つまり、超越という概念をつきつめていけば、自己を超えたところから自己は語られるものとなる。超越の側によって自己が存在させられるということだ。むろん、そう語るのは自己である。自己という宿命的な位置から、私は誰かによって語られることでここにあるのだと自己が語るのである。

 超越の側が一神教な神であるときには、この矛盾は封印される。なぜなら、最初からここにある自己は神の創造物だからである。が、この超越が、自己にもまた日常のどこかに、他者にも、いたるところにあるとするなら、たちまち、矛盾が顕現する。自己という位置が神の被創造物ではない以上、論理は自己から出発してまた自己に戻らなくてはならない。自己を超えることを(ある)とするなら、自己が自己であることは(ない)である。、一神教でない世界では、自己を超えることは、一神教が自己を神の創造物とするような具合に、自己が自己であることを解決しない。自己を超えることと自己が自己であることがただ同時にあるだけであり、だから、ないがある、あるがないという言い方が必然化する。

 さて、こういう論理を心理療法の現場にいる心理学者が何故用いようとするのかということであるが、どうやら、心理療法の治療の現場においては、こういう多義的な意味での超越が何等かの形で認められるからだということであるらしい。

 むろん、スピリチュアルカウンセラーといった典型的な治療のことではなく、治療者がクライアントとに向き合うこととは、被治療者の生あるいは魂といったものにシンクロすることであろうから、そういう行為自体は、ないがある、あるがないといった言い方でしか言い表せない何等かの超越を共有することである、ということのようだ。

 たとえて言えば、心理士がクライアントに向き合うことは、一種の憑依であり同時に憑依から醒める行為であるとういことだ。この本には鎌田東二も参加していて、鎌田は心理士は審神者(サニハ)の審神者だと言っている。つまり、憑依しながら同時に憑依の内容を対手に冷静に語ること。そういう意識と無意識が混じり合いながら自ずと制御される自在な姿勢、というところ、と言ったらいいか。私がまとめるならこういう言い方になろうか。

 江原啓介のように守護霊や前世を明朗に語ることで不安を消去するということではなく、問題は、被治療者と向き合う、話す、治療するという行為そのものが最初から言葉によって掴み出せないことがらであるということなのだ。言葉では捉えられないという意味での超越、それを必然とするなら、それこそ憑依や覚醒といった意識と無意識をまぜこぜにするような関わりの中で、そこから自ずと制御されていくある生のかたちを被治療者にあるいは被治療者が見出していく、という手順をいわば必要とするということではないか。この本を読みながらそのように感じた。

 心理学関係の本が難しい理由がこの本を読んでよくわかった。つまり、整合性のある論理では心の病は治せないということである。心が複雑にからまるように論理もまた絡まっているのである。
 
                 話などせぬままにただ西瓜食う

鬼バス2008/08/16 21:56

 明日から中国です。しばらくはブログもお休みです。28日に帰国の予定。帰国したらすぐにオープンキャンパスやら研究会やらと仕事が待っていて、大変そう。

 準備は何とか間に合ったお土産を買うのに苦労した。毎回、調査に協力してくれる中国人にお土産を持っていくのだが、これがいつも大変。例えば洒落た置き時計などがいいと思っていつも持っていくのだが、安いものは全部といっていいほど中国製。最近は中国製でもいいや向こうで売ってなきゃと思ってあきらめている。

 新宿のデパートでは売ってなく、東急ハンズで何とか写真立てとデジタル時計とがセットになったものを見つけてそれを二つ買い求めた。それから、伝統音楽、例えば日本の民謡、サクラなどの曲が入っているCDというお土産の希望がメールで届いて、さて困った。サクラは民謡じゃないし、唱歌かなとか、ソーラン節のような民謡持っていってもたぶん違うだろうと、いろいろ考えて、民謡や唱歌をアレンジしたCDを見つけた。

 土産物は、中国の地方で調査に入るときにその地域の文化局の局長とか共産党の書記長にわたす。十名以上の人数が村に入る場合、そういう人達の口利きがないとなかなか難しいのである。

 今日は、北川辺の友人宅が完成したので奥さんと北川辺に。友人達が集まって新築祝いの宴となった。近くに鬼バスの原生地があるということで、見学に行く。鬼バスとは蓮のことだが、他の蓮と違って大きな葉の一面にトゲがある。そして花のつぼみはその葉を突き破って出で来る。大きな葉は直径一メートルになるという。お釈迦様は蓮の上に座るイメージがあるが、この蓮の上には座れない。いかにも地獄に咲く蓮という感じだ。鬼バスという名前の通りである。北川辺が鬼バスの唯一の原生地ということらしい。

 友人宅ではお盆ということで、近くのお墓の墓参り。キュウリや茄子に割り箸で脚を四本付けて供える。それが面白かった。馬をかたどったものだろう。先祖の乗り物だ。かつて雲南でお盆の家の見学をしたとき、紙で、御輿や自動車や馬が立派に作ってあった。それを思い出した。

 帰りは、帰省ラッシュの後半と合致し、東北道と首都高は大混雑。三時間かかって帰ってきた。明日の準備。何とか明日には立てそうだ。

鬼さんも供養せんとて魂送り

とりあえず帰国しました2008/08/30 00:21

 28日の夜、無事に中国から帰国。8時に成田着。家に帰ったのは十時半。それから、2時まで、研究会のレジュメ作り。考えてみれば、朝五時に起きて昆明から飛行機に乗り、広州で乗り継いで、という具合で、一日移動ばかりであった、それでも仕事はしなくてはならない。出立前夜もあまり寝ていないが、到着したこの日もあまり寝ていない。

 29日は出校。オープンキャンパスである。雑務などをこなし、学校の近くで31日から行く松江までの飛行機のチケットを買う。夕方家に戻る。チビの散歩をし、レジュメ作り。あまりはかどらず。

 ブログにも中国のことなど書きたいがとてもその余裕無し。ブログの再開は研究会から戻った二日以降になりそうだ。とりあえず帰国の報告です。