2050年のことなんて…2008/02/08 23:59

 相変わらず入試関係の会議が続く。2050年の18歳人口まで見せられて、このまま何にも改革しないとやばいよ、と言われる。そこまで生きているか!とは思うが、次世代のことも考えないとな。

 柳田国男は、家族を先祖と子孫も含みこんだものとして家族だと言っている。だから、家には位牌が祀られているのであって、その位牌は、自分が死ねば子孫が自分を祀ってくれることを物語るというわけだ。

 柳田は日本人の一つの倫理観をこのような先祖や子孫を含んだ、家族の固有信仰のありように求めた。これを宗教と言ってしまうと適切ではないが、、柳田の考える家とは、先祖を祀る宗教集団と似ていなくはない。というようなことは以前ブログで書いた気がするが、要するに、子孫のことまで考えるという倫理観をどう作り上げるかはたぶん現代を生きる人間に突きつけられた難しいテーマだろう。

 子孫なんてとこまで思い及ぼす想像力をわれわれは失っている。そういうことは政治のの問題であって税金払ってんだから政治家が考えろ、というのが大方の意見だろう。資本主義社会は、個人の欲望の充足に価値を置くから、その充足は現世的なものになる。環境問題が深刻化するのは、現世的欲望の追求を抑制することが難しいからである。やっかいなことに、この充足にわれわれは自由という普遍的な価値をほとんど重ねている。だから、環境問題に熱心で消費主義を批判する人は、自由を抑圧する人に見えてしまう。環境問題の解決とはほとんど子孫の幸福の問題である。その子孫のことに思い及ばない以上は、環境問題の解決はないだろう。

 そういう意味で言えば、個人が子孫のことを考えるというのは、それこそ、現世を越えた超越的思想に踏み込まなくては無理ということになる。その実現にリアリティを持たせるとすれば、宗教かファシズムに近づいてしまう危うさもある。

 話が大きくなってしまったが、自分の職場の問題にかえせば、例えば、私は、この職場の将来にどの程度まで責任を持つべきなのかと考えてみる。私の定年はあと10年ほどだから、あと10年職場がもてばいいや、というのも一つの考え方であろう。というよりそれが普通かも知れない。

 次のあるいは次の次の世代にまで責任を持つというその根拠は、つきつめていけば、自分が生きているこの社会に対する愛情、その言い方が変なら、それを失うことに耐えられないという情とでも言うべきものだろう。

 簡単に言えば、定年までもてばいいや、というのは私の自分の職場に対する愛情のある度合いをあらわしている。これを環境問題にまで広げれば、別に自分が死ぬまで環境が持てばいいやという気持ちは、たぶんほとんどそうだろうが、自分が生きているこの世界への愛情のある度合いを示していることになる。

 愛情とは別な言い方をすれば執着である。愛情の度合いは執着の度合いと言ってもいい。子孫にまでわれわれの想像力が及ばないのは、この意味での執着が希薄であるからだ。この希薄さは、たぶんに、現代の社会の問題でもある。

 私は2050年まで自分の職場が生き残ることを願うが、一方で、定年まで持てばいいやというのもある。若い人のことを考えると職場の将来が確かに気になる。がそんなことどうでもいいやと思う気もある。私の愛情はどの程度なのか、正直自分でもよくわからない。確実に言えることは、私の給与が倍になれば愛情は確実に益すということだけだ。

        愛なんてどうでもいいや春浅し