歌の音数律2008/02/03 16:28

 京都から帰ってきたら雪である。京都は朝方少し降った程度でたいしたことはなかったのだが、こっちは結構降っている。川越駅で奥さんに迎えに来てもらった。

 研究会のほうはE君に来てもらってリス族の歌の音数律の発表をしてもらった。歌の音数律の問題は、昨年のアジア民族文化学会のシンポジウム以来のテーマなのだが、なかなか難しい。

 アジアの歌(詩)のだいたいの傾向として、決まった音数律を持たない歌から決まった音数律を持つ歌へと変化する。これは、日本の歌も同じで、記紀歌謡から万葉へはそのような変化である。少数民族の歌もだいたいそうである。それから、偶数が少ない。奇数音が多い。一句の音数は3音から8音の範囲でほぼ納まる。だいたい言語を異にしていても以上の法則はあてはまる。

 何故難しいのかということだが、歌(詩)の音数律ということが、その言語に内在されたリズムの問題なのか、それとも、旋律との関係でそうなるのか、それとも、ただある一定の長さが大事なので、あとは、その長さ厳格に守るか守らないかの違いなのか、そして、言語の構造を異にするということが、音数律やあるいは長さにどういう影響を及ぼすものなのか、まだよくわからないのである。

 音数律の研究はかなり長い間行われているのに、何にもわかっていない。理由は、今まで一つの言語、つまり、日本の中だけで論じられてきたからである。われわれの研究や調査によって、ようやく、アジアの少数民族との比較が可能になった。それで、何だまだなんにもわかっていないじゃないか、ということが見えてきたのである。

 沖縄のKさんの発表は、歌や叙事や歌い方、あるいは唱え方の問題であった。北海道の大学に20年いたKさんはアイヌのユーカラや物語などの歌うような語り方に詳しく、それと沖縄のまた物語の歌うような語り方とを比較し、実際に録音で聞かせてくれたが、これが驚くくらいよく似ていた。

 万葉巻16に乞食者の詠があるが、沖縄でもアイヌでも、ああいう内容が歌うと言うよりは語られている。とすると、あの乞食者の詠は、歌うと言うより語られていた可能性もある。そういうように考えていくと、万葉の歌は必ずしも全部が歌であるなどとは言えなくなる。そういうことを考えさせる発表であった。

 夜は京都に戻り京料理を味わった。味わうというほどおおげさなのものでもないが、おいしかった。丁度節分でどこか鬼やらいの行事をやっているはずで、それを見に行こうとも思ったが、雪が降り始めたこともあり、早めに帰ったほうがよさそうだということで、E君と午前の新幹線で京都を後にした。

      雪ん中裸足で逃げろ鬼やらい

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