女性はたいへん2008/01/17 00:28

 学校が始まり、相変わらず会議の連続。そして今日は「民俗学」の授業。民俗学の授業なんだが、女性性とどう向き合うか、というとても難しいテーマで締めくくった。この授業のテーマが「憑依の文化を探る」で、柳田国男の『妹の力』をテキストにした授業であるからである。

 柳田は、晴の力を秘めた女性性の回復を願ったが、その女性性がどのように社会に役立つのかについては一言も語っていない。むろん、そう簡単には語れないことだろう。むしろ、フェミニズムは、女性性の晴の力(非日常的なイメージ)を 男女差別の根源として否定する。つまり、それこそが作られた制度にすぎないというように。

 上野千鶴子は『家父長制と資本主義』で、近代資本主義が家父長制といかにつるんで女性を搾取したか(例えば家事労働をただ働きさせること等)を論じたが、実は、現代の消費資本主義も女性性を利用している。

 消費資本主義は、消費欲望をいかに掻き立てるかが重要課題である。だから、女性性が消費資本主義のメインのイメージとなる。何故なら、女性性の持つ晴の力は、場を非日常に変えうるからで、その力が、消費という非日常的なエネルギーを引き出すのである。つまり、民俗社会での女性の晴の力が、消費資本主義では消費を促すイメージとして社会化されるのである。

 別な言い方をすれば消費資本主義を女性性が支えているということもできる。が、そのことは、女性性の強制でもある。一方で社会は女性を一人の個人として、女性性とは関係なく生きることを奨励する。とすれば、女性は現代社会において分裂せざるを得ない。その象徴的な例が「キャリアウーマンはエステに通う」である。

 女性性の晴の力を利用すれば巨乳のグラビアアイドル路線もある。が、ほとんどの女性は、女性性とかかわりなく個人として職業人であろうとしてキャリアウーマンをめざす。が、実は、女性性の晴の力を必要とする消費資本主義の中で生きることは、美しくあらねばならないという強迫観念にとらわれることでもある。従って、エステ産業はキャリアウーマンの御用達となって繁盛するというわけだ。

 女性とはなかなか大変だなと思う。でも、逆に言えばそれだけ多様であるということで、面白い生き方でもある。私が自分の中の女性性と向き合っても何も出で来ないし何の意味もないが、君たちは違う、どのように向き合うのか、問われるに違いないと問いかけてこの授業は終わるのである。

 次回はテストである。そのせいかみんな真面目に聞いていた。内容のせいなのか、テストがあるからなのかはわからなかった。

        小正月宿りし神も帰り支度