久しぶりに思想など語る2007/11/15 00:45

非常勤で来ているU先生からお誘いがあり、5限の授業の後すずらん通りの揚子江飯店に行く。どうも二日続けての外食で、実は、金曜日に人間ドックに行くことになっているのだが、心配である。またコレステロールが上がるのではないか。

5限の授業は上手くいかなかった。プリントを何枚か配って説明をして、ビデオを見せるというやりかたをしたが、ノートを取るような機会がなかったので、かなり寝てしまった。反省である。こちらのしゃべりだけでついてくると思うのは幻想であって、やはり、そこはノートを取らせるとか、飽きさせない工夫をしないと難しい。この歳になってまだうまく授業が出来ないのは、歯がゆい限りだが、こういう反省を繰り返すしかないののである。だいたいいろんなことを知ってもらおうと思って内容を詰め込みすぎるきらいがある。もっとシンプルに体系づけて、資料も多くしないこと、という原則はわかっているのだが、あれもこれもとなってしまう。困ったものである。

Uさんは大手出版社の編集をやっていた方で、今は文章表現を教えていただいている。60年安保の世代で、70年安保世代の私とは10歳ほど違う。その時代の激動期を潜ってきた人らしく、話はいつの間にか革命のことになった。革命の理念をみんな忘れているのではないか、と彼は理想主義者のように語り始めたので、その理想主義そのものが、問題なので、生活者のリアルな現実を失った理想主義は結局失敗するだけではないですか、と言うと、それは、この金儲け主義の世俗を肯定するこにならないか、と反論してくる。久しぶりに、こういう理想主義の人と話をした。その意味ではとても面白かった。

世俗を否定する理想主義は結局原理主義になり、粛正主義になり、自爆するか、結局組織を維持するだけの思想に堕する、というのが20世紀の教訓だった。理想主義は、ある段階で世俗に対して絶望し世俗を憎み始める。そうなると、他者との関係のなかでしか思想とは動かないものだという基本的な原理を失ってしまう。自己の内部で完結した思想だけで動き始める。それは純粋かも知れないが、純粋なのは一面で、実は、冷たい打算的な世俗の論理を隠蔽した純粋さでしかない。純粋な特攻も自爆テロも、純粋な若者を組織し、攻撃目標を現実の政治的な目的によって決め、命を捨てさせるシステムがかならずある。そういう冷たい世俗的システムの上に純粋さは成立するのである。

Uさんの苛立ちはわからないではなかった。Uさんはまだまだ青年であると思った。それはたいしたものだと思う。私の方がずっと世俗的だし年取っている。が、人間の世俗的な欲望を何処かで肯定しながら、それを克服する困難に耐えなければ人を動かす思想など構築出来はしない、というのが私の信念である。久しぶりに思想などと言うことを語った一日であった。

           酒飲みて語る思想や冬日和

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