バベルを観る2007/11/11 01:00

今日40枚の原稿を書き上げて郵送。データはメールで送る。記紀歌謡から万葉の和歌、そして万葉の和歌の展開を、物々交換、貨幣経済、マネーゲームという喩えで論じていくもので、書いていて楽しかった。トンでも論になる可能性はあるが、こういうのが一本あってもいいじゃないかと思う。

熱は下がったが、今度は首が痛くなってきた。ワープロの打ちすぎで、首の頸椎に負担がかかったらしい。これも持病である。首をうつむき加減にして長時間キーボードに向かっているので、むち打ちと同じ症状が出る。これがけっこう辛い。

DVDで「バベル」を観る。痛ましい映画であった。菊地凛子が演じていた聾唖の女子高生は痛ましくて見ていられない。アメリカ人を撃ってしまったモロッコ人の兄弟も痛ましい。アメリカ人の子供面倒を見ていたメキシコ人のベビーシッターもまた痛ましい。

こういう映画はあまり好きではない。話題になったから観たが、こういう痛ましさを見せつけられて感動するほど、私は高尚でも傲慢でもない。映画のメッセージはよく伝わった。痛みを抱えている人間、社会の底辺で痛みを抱えざるを得ない人間、はからずも痛みに出会ってしまう人間、世界はみんなこの痛みというところでつながっているということなのだ。

最近こういう映画をみるほどのタフさがなくなってきた。もともと現実を直視する映画よりは、現実を回避する映画の方が好きなのである。こういう他者の痛みを受けいれるよう強制する映画は敬遠する傾向がある。痛ましいのは自分のほうなのに、なんで人の痛ましさを直視しなきゃならねえんだという自己中心的な所も若いときにはあった。そういうところはまだ残っているかなとは思う。

つまり、身につまされるという言い方で言えば身につまされすぎるのだ。だから見ていて辛くなる映画は苦手なのである。それでも見るのは、こういう話題性と芸術性の高い映画は観ておかないとまずいという強迫観念があるからである。こういう私は充分に痛ましい。それにしても菊地凛子の演技は、目を背けたくなるほどたいしたものであった。

          痛ましい映画見る日は冬めきて