寄り合い2007/11/05 10:45

 ここんとこめいっぱいで、さすがにブログを書く余裕がない。ただ、論文の執筆は、何とか予定通りには進んでいる。この先どうなるかわからないが。ここ一週間が勝負といったところだ。

 昨日の夜山小屋から帰ってきたが、さすがに高速は渋滞していた。一日、論文を書いていて、どうせ混むだろうと7時過ぎに出発したのだが、夜の10時すぎても関越は25キロの渋滞である。行楽客がほとんどだろうが行楽とは帰りは行苦になる。

 でがけに小沢代表の辞任のニュース。この人はなにを考えているのかよくわからない。あせりがあるようだ。年齢や、健康や、民主党の内部事情をいろいろと考慮すれば、自分が政治家を志した夢そのものが果たせないまま終わっていくのではと、考えたのだろう。

 政治とは人を動かすことである。別の言い方をすれば人の運命を支配する権力を持つことである。その権力を否定しながら人を動かす革命の方法を若いときは思い描いた。そんなにうまくいかないことは身にしみてわかった。

 小沢一郎は嫌いではないのは、この人は権力欲があまりないからだが、それは、政治家としてはマイナスだろう。今度の辞任劇も権力欲よりも持論の政策実現の可能性を優先させたように見える。権力を持とうとすれば、人に担がれる基盤を優先させるはずだから、捨て身で大連合などという戦略はとらないだろう。

 いろんな論評があったが日本の政党政治の未熟さというのが一番当たっている。一党独裁支配に近い戦後民主政治の弊害だろうが、別な見方をすれば、トップダウン型がボトムアップ型の合意政治に敗れたとする見方も出来る。

 グローバル化した政治状況で素早い意志決定が問われる現代では、ボトムアップ型の日本的合意形成は時間がかかりすぎて対応できない。そこでトップダウン型が指向されたのだが、小泉ではうまくいったが、安倍で失敗した。福田首相はボトムアップ型だから小沢一郎を利用しようとしたのだが、やはり上手くいかなかった。小泉は例外であり、日本ではなかなかトップダウンは上手くいかないのである。

 小泉がうまくいったのは、主張が明確でその主張以外に邪心がなかったからだ。靖国参拝は意地みたいなものだが、別にナショナリズムをあおったわけでもない。権力こだわらないことも最初から示していた。日本が失われた10年のまっただ中であったことも幸いした。

 おそらくはまだまだ日本でのトップダウン型政治は無理なのだろうと思う。多少時間がかかっても合意政治でやっていくのが無難だというわけだ。日本の合意形成は村の「寄り合い」の伝統を受けつぐ。無駄に思われるほど時間はかかるが、そこそこ無理のない結論に落ち着く。緊急課題の対応に問題があるとしても、格差を一気に広げるようなリスクを伴う決断はしない。リーダーはいつもリーダーで、反対意見を言う者はいつも反対意見を言う。それぞれのスタンスは変わらないから本当の意味での論争にはならない。一応皆が一通りの意見を言って、それを皆が聞いて、丁度いいところ辺りで決着をするというものである。

 日本の国会の議論そのものがこういう「寄り合い」である。小沢一郎はそれに我慢がならなくなったというわけだ。こういう「寄り合い」では、政権交代はまずないからである。

 政局もおもしろいが、私はそれどころではない。また地獄の一週間が始まる。

         神無月わいわいがやがや何処へ行く

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