のんびりというわけにも…2007/08/12 01:03

 いやはや暑い。といってもここは下界とは違って、標高1400メートルの山の中だから、下界と比べると8度近く気温は低いはずだが、それでもやはり暑いと感じる。ただ、日陰は涼しいし夜になると長袖でないと寒くなる。夕方ベランダで藪蚊にに刺された。初めてである。ここは標高が高いので蚊はいなかったのだが、温暖化の影響なのかも知れない。

 チビは黒い毛が密生しているので暑さが苦手である。だから、こっちでの散歩はとても好きである。川越ではとてもじゃない散歩どころではない。それでも、しばらく歩くとすぐに草むらにごろっと横になって動こうとしなくなる。暑いとこれを何度もやる。その度に身体を起こして散歩を続けさせる。

 ここ三日間私は山小屋でチビと一緒にすごしている。奥さんは川越に用事で帰っている。のんびりというわけにはいかない。学会のセミナーでの発表で何をどう話すかまだまとまっていないので、本を読んだり考えごとをしたりで、一日があっという間に過ぎていく。どうも今度のセミナーではひんしゅくを買いそうだ。この間の座談会もだめだったが、そろそろ限界かなと思ったりもする。能力の限界もあるが、仕事量の限界ということもある。今年分の仕事はすでに充分してしまったので、これ以上はついていけないというところだ。

 セミナーを引き受けていなければ、今頃白樺湖や女神湖の花火大会でも見に行けたのだが、そんな余裕はとてもじゃないがない。引き受けなければよかった後悔している。セミナーが終わったら、中国に調査に行くがこっちの方も気がかりだ。

 何とか村に入らずに近くの招待所に宿を取り、そこに村の人に来てもらって取材をすることで話がついたそうだ。取材の目的は、葬式の時に歌う踏葬歌なのだが、たぶん村ではこの歌は歌ってくれないだろうと、近くの村に入ったことのあるE君は言う。つまり、縁起が悪い歌は葬儀でないときには村では歌わないということで、そういう例は私なども体験している。その意味で、むしろ村に入らない方が正解なのだが、ただ、せっかく行って村に入らないというのもつまらないので、一日だけ村に行って取材をするということで話はついた。一番いいのは葬式の場面にぶつかることだが、そういうことはめったにないし望むことでもない。

 久しぶりに言語学のことなどを頭の中で思い浮かべながら考え事をしていて、言語学の理論というのは、実に矛盾をかかえているものだと改めて実感した。言語は一つの体系であり、それはわれわれの頭の中にある。が、それは見えないし取り出せるものでもない。あると想定することで、われわれが言葉を書いたり考え事をしたり話すことができることの説明がつくのだ。言い換えれば、われわれが話したり書いたりしなければ存在しないものであり、また、話したり書いたりするという極めて個別的な行為(生きること)でしかないということでもある。

 それって神さまと同じじゃん!と思う。つまり、超越的なものとして想定せざるをえないものであり、その現れは、個別の生にしかないということである。神様を客観的に論じることは出来ない。とすれば言語だって同じである。ところが、言語学という学問があって客観的に論じることを疑っていない。その意味では、言語学ってある意味で神学ではないかと思うのだ。今度のセミナーで触れなければならない折口信夫の「言語情調論」なんでほとんど神学である。そう考えると、憂鬱である。

         夏草やその勢いへ踏み入りぬ

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