善き人のためのソナタ2007/08/08 11:45

 何をしても眠い。さすがに疲れが出てきているようだ。「折口信夫と学問形成」(高橋直治)を読んでいるが眠くて先へすすまない。眠気を覚ます本ではないということもあるが。

 6日は、連歌の研究をしている奥さんの友達が来ていて、師匠の先生が住んでいる北軽井沢のお宅に伺う。その師匠の家に伺うのは私は三度目になる。奥さんの友達は仕事を辞めて大学に社会人編入で入り、そのまま大学院の博士課程まですすんだ人だ。年齢は私より一つ上。奥さんも一つ上だが。

 帰り、軽井沢の陶器屋に寄る。陶器のアウトレットの店で、かなり良いものを安く売る。奥さんが物色している間、外でチビと一緒にいたが、隣の店先に向かってチビが突然吠えだした。何事かと思ったら、犬か猫のような動物の置物が店先にあって、それに向かって吠えたのだ。めったに吠えないのだが、時々変な物に吠える。その基準がいまだよく分からない。軽井沢の人混みの中をチビを連れて歩くと、あっちこっちから、可愛いと声がかかる。さすがに、黒の豆柴だ。飼い主がいうのも何だが、可愛いのは当たり前。チビと同じ大きさの柴犬をまだ見たことがない。よほど珍しい犬と見える。

 7日は、E君が家族と一緒に来訪。夕飯を一緒に食べる。彼の実家は岡谷なので帰省していたということだ。小学一年生の長女とまだ一歳になったばかりの次女がいる。E君も専任にまだなれない身としては大変だ。お父さんとして頑張らなくては。

 ドイツ映画「善き人のためのソナタ」を観る。なかなか良かった。長い映画だったし、暗い映画だったが、久しぶりに感動した。東西冷戦時代の東ドイツで、危険人物を監視する組織の男が主人公だが、盗聴をしている女優や作家にシンパシーを抱き、ついには、作家を助けてしまう。そのことが怪しまれ、彼は左遷されて地下の一室で手紙を開封する仕事を何年も続けることになるが、4年後にベルリンの壁が崩壊する。自分が盗聴されていたことを知った作家は、何故逮捕されなかったか疑問を抱き、その男の存在を知る、というストーリーである。

 国家という抑圧装置を一新に背負った役人が、「善き人のためのソナタ」というピアノ曲を盗聴器を通して聞いたことがきっかけになって、自由の価値を知る、という寓話的な筋立てになっている。が、それは寓意でしかなく、本当は情のようなものがそこに兆したと言う方に近い。この映画の面白さは、何故、組織の命令に忠実に従う有能な男が、その任務を放棄して危険分子を助けたのかという疑問に答えていないことにある。この曲を聴いたら誰でも善人になるというピアノ曲を聴いたから、というのは、ストーリーを面白くする一つの工夫に過ぎないだろう。この映画のディティールは、そんな単純なものではない。同じピアノ曲を聴いた女優は作家を裏切るのである。

 人間というのははからずも悪人になることもあるが善人になってしまうこともある。女優が夫を裏切るのもそうだし、保安局の男が国家を裏切ることもそうなのだ。そういう偶然性の側に一筋の光明はあるのであって、善なる人間の本質こそがここにあるといった、理想主義の側にあるのではないということだろう。ただ、善の側は不遇であってもそれなりに快適であることをこの男は伝えている。同じように裏切った女優は不幸だった。これもまたこの映画の明るさであろうが、この明るさはベルリンの壁崩壊がもたらしたものだ。

 主義主張を通した演出家は自殺したが、ベルリンの壁崩壊を待てなかった。その意味では、ベルリンの壁崩壊という歴史を誰もが(われわれも)知らないという前提に立てば、善人の未来に希望があるとは自信を持って言えなくなる。それを保証するのはかたくなな信念か宗教ということになろうか。

 その意味では人は誰でもベルリンの壁崩壊を知り得るような超越的な視点を得るために努力するべきなのか。それとも、そんなこととかかわりなく、ただその場でのそれぞれの生きる価値観に従って、善人であるべきことを優先するべきなのか。生活という場だけに閉じられれば国家の監視網の中で不快を感じずに善人でいられる。が、それを不快に感じたときに、どうふるまうのか、は普遍的につきまとう問題だろう。

 この問題の難しさは、不快と感じない生活者を悪と断じてしまうことは出来ないと言うことである。知識人とは、それを不快に感じる人種のことであるが、誰もが生活者でもある。そこに、葛藤というものが生じる理由がある。

 この葛藤は、人が生きるために組織(国家から会社まで)に属している以上どこでも必ず起きる。生きるために主義を裏切ることはいくらでもあり得る。そういうところで善人や悪人を判断しても空しいだけである。

 が、生きることを優先することは決して虚無的になることではない。生活の中にも理想はある。ただそれは簡単には見えないということだ。むしろ、生活の視点をくぐり抜けた理想は、それだけ鍛えられているということも出来る。

 私がこの映画に感動したところは、この国家の監視官が、最後に上官に作家の罪を見逃したのではないかと疑われ、20年間手紙の開封をしろと左遷されそれを引き受けたことである。生活は貧しくなったろうが生活そのものは維持できる。それで充分だということだ。女優は、女優という職業を奪われることに脅えた。それは女優が生活ではなく、アイデンティティだったからだ。生活が維持できさえすればそれで充分だという居直りがあれば、だいたいのことは耐えられる。アイデンティティにこだわって生きれば人間とは弱いものである。このような寓意を「善き人のためのソナタ」から読み取ることもできる。

     蝉の子や憂き世の中を飛び出しぬ

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://okanokabe.asablo.jp/blog/2007/08/08/1711729/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。