成績をつける2007/08/03 01:42

 今日は一日成績をつける。毎年ほんとうに悩む時期である。ただ管理職のお蔭で担当の授業が少ないので悩みは前ほどではないが。私の授業は今年はどういうわけか学生が少ない。その点、成績をつけるのは楽なのだが、寂しいと言えば寂しい。T君と同じだが、予備校で大人数で講義をしていたせいか、どうも少人数だと、ハイテンションになれない。だからアンケートもよくない。

 今はウェブネット上で成績登録が出来る。一定の期間内ならば訂正も可能だ。うちの大学はこういうことに最近力を入れている。悪くはないと思うが、問題は教員や学生がどのようにこういうシステムを生かすかだろう。インターネットの授業も流行りだし、情報ツールを駆使した新しい教育方法を、全国の大学で開発の競争をやっていて、そういう試みの研究発表が毎月のようにあちこちである。

 実は、私も年に一、二度参加しているのだが、最近疲れてきた。ある研究大会で自己評価疲れが最近言われるようになってきたという発言があったが、確かに、疲れてきた。アメリカ型の教育競争原理を導入するこういう試みは、小泉首相時代の、構造改革諮問会議の方針に沿ったもので、大学の競争を促して市場原理に敗れた大学や教員(負け組)を排除し、競争力のある者(勝ち組)だけが残るという路線である。

 その路線の上に、実は、情報ツールを駆使しした教育の開発競争や、アンケートなどの自己評価があるわけだ。今度の選挙でそういう自由競争の行き過ぎによる格差社会化への懸念が示されたように、みんなそろそろ疲れ始めてきたのである。教員もまた同じである。
 
 こういう競争原理だけが価値となるような事態がもたらすマイナスは、いろんな意味での遊びや余裕がなくなることである。授業の面白さは、教員のイレギュラーな話や雑談にもある。そういうところを削って、杓子定規な一定のマニュアル従った授業がはびこることが、良いことだとは思えない。

 大学での勉強というのは、知識を、抽象的なものの見方に耐えられるように自分なりに整理していくことである。言わば他者の知識を自分なりの抽象化によって自分の知識に換えていくことであって、その抽象化の力こそが、自立できるかどうかのポイントだ。抽象化というのは、自分を自分とは違う世界の中に投げ込むことであって、それには、余裕が必要だ。そういう余裕は、生活に追われる社会の中ではなかなか得られない。やはり大学で得るものだ。

 ところが、最近の大学の改革は、肝心のこういう一人の人間が自立するのに必要な、遊びや余裕を排除する流れにある。特に、教育には費用がかかり、その費用対効果が求められるようなったことがその流れを加速している。授業料はかなりの高額である。その費用に見合う教育という目標を設定されたとき、自立や抽象的な思考の力といった悠長なことは言ってられないのである。

 大学に身を置く者としていつもそこはジレンマである。子どもに学費を払う親たちも余裕をなくてしている。学生もまた余裕をなくしている。こういう中で、余裕が大事だと言うことは、改革の流れにさからう守旧派宣言と同じで、経営効率と教員の管理をすすめたい経営側の覚えもめでたくはない。

 私は改革をすすすめる立場にいるので守旧派にはなれないが、そろそろこういう改革の流れに棹さしたいとは思っている。むろん、生き残りをかけた改革はやらなければならない。大学が潰れたら、自立とか余裕とか全部吹っ飛んでしまうからだ。が、教育の場というのは、人と人との関係をとても豊に出来るところである。経済より教育という理想の側で働くことを共通了解にしているからこそ、教育の場で働くことに憧れる若者が多いのである。そういう良さを無くさないで生き残りをかける、という困難さをわれわれは今抱えているというわけだ。その意味では、競争から脱落しないが、競争とは距離を取るという微妙な舵取りが必要だと言うことになる。

     呆けたりとはいかぬぞや夏休み