しようがない?2007/07/04 01:30

 しょうがないというのは、私もけっこう使う言葉である。久間防衛大臣はこの言葉で辞任したが、しょうがないではなく当然だろう。しょうがないは、あきらめの意味であるが、例えば自然災害でひどい目にあったときなどにしょうがないと使う。

 人力ではいかんともしがたい自然や神の威力を、運命として受容する時の言い方と言ってもよい。その意味では、久間大臣には、アメリカは自然や神の如く、どうしようもない存在であったということになる。この人は、余り考えてしゃべる人ではなさそうだから、普段の使い方がそのまま出てしまった、ということだろう。とすれば、この人は、原爆という出来事を自然災害のレベルで受容し、アメリカは神の如きどうしようもなくしょうがない相手だと言うことなのだろう。

 が、この「しょうがない」が、人間にたいして使われるとき、例えば、理不尽に相手に喧嘩を仕掛けられ一方的に殴られた場合などに、相手もイライラしていたのだろう、しょうがないとあきらめることがある。あるいは子どものいたずらなのだからしょうがいよ、というようなケースとか、相手の立場にたって理解を示し、こちらの痛みをやわらげようとする場合がある。これをやさしさと言っていいのか、弱さといっていいのか、どちらとも言えるだろうが、日本人にはよくあることである。

 今回の場合、久間大臣は、原爆を落としたアメリカに理解を示したということで猛反発にあった。確かにそうも受け取られるが、たぶん、原爆を落とされたことは、自然災害のように、どうあがいたってどうしようもないことだから、運命のように受けいれるしかない、ソ連に占領されないですんだという良いこともあったではないか、という意味での「しょうがない」ではなかったかと思う。相手に理解を示したというよりは、被害を受けた自分の側の気持ちの整理をどうつけるか、憎むことも批判することも出来ないのなら、こっちが運命として受けいれようじゃないか、とでも言う気持ちだったのだろう。

 しかし、こういう言い方というのは、被害を受けたもの同士が、お互いの心を思いやりながら、ごく内輪で言う言葉である。講演という場で、公的な立場のしかも防衛大臣が言うべき言葉ではない。その意味では、立場や言葉の持つ重さをわきまえないことを一度ならず何度も露呈したのだから、辞めるのは当然だろう。

 私は、こういう「しょうがない」という言葉そのものは、悪い言葉ではないと思っている。むろん、久間大臣は悪くなかったということではない。ただ、「しょうがない」と言う言葉がこれだけ脚光を浴びるのはめったにないことだから、この言葉の持つ奥深さについていろいろ議論があっていいと思う。

 この問題を思想的に論じるなら、日本の戦争責任を曖昧にすることで日本を西側に組み込もうとするアメリカの思惑と、戦争責任を回避したい日本の思惑との共犯意識が、原爆というアメリカにとっては罪の意識となるはずの行為を不問に付し、国家というレベルでそれについて議論することをタブーとしてしまった、ということに問題の焦点はある。

 そのように、アメリカのそして日本の戦争責任を曖昧にしてきたつけがこのような発言として現れたということも出来る。戦争責任論がもっと明確に冷静に為されていれば、原爆の被害を「しょうがない」と語る言い方は出てこなかったろうと思うのである。

      雷鳴や遠き戦争語る人

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