メタボになってる2007/06/19 00:21

 午前中、いつもの医者に通風の薬を取りに行く。2ヶ月前の血液検査の結果が出ていた。コレステロールは下がったが、中性脂肪がやや高め。これは甘いものの食べ過ぎかも知れない。問題は、血糖値が基準値をオーバーしていることだ。この結果を見た奥さんが、あなたやばいよ、とややきつい調子で言った。

 確かに血糖値が基準値を超えたのは初めてで、どうしてなのかはわからない。糖尿病だけは大丈夫だと安心していたが、これは安心できなくなった。別に生活習慣が変わったわけではないし、体重も変わらないし、コレステロールが下がっているのに、何で血糖値が上がるのかよくわからん。

 原因は運動不足、あなたはとにかく家では坐ったきり動かない、そういうところから直していかないとだめなんだから、と奥さんに言われたが、そう言われても、仕事場ではけっこう動いているつもりだ。家でもちょこまかと動けと言われてもなあ。運動不足はわかっている。しかし、これ以上身体を動かせというのは、過労死に近づくだけだ。とにかく限度一杯に動いているつもりなのだ。過労死か、生活習慣病か、その中間がないのが悲しい。

 人間の身体は悲しく出来ている。というより、今のこの生活の仕方が悲しいのだ。いや、私の身体が悲しく出来てるのだ。身体を動かす仕事ではない今の仕事が私には向いていないということだ。私の身体は、教員程度の運動量では、運動不足で死に至るように出来ているのだ。食事がぜいたくなのではと言われかねないが、粗食ではないが、ほとんど肉類は食べない。ビールだって一日コップ一杯飲む程度である。腰回りだって、80センチで、メタボの基準値である85センチを下回っている。

 ストレスが運動量のようにエネルギーを消費してくれたらどんなに健康的になれるだろう。私は人よりストレス耐性は強いと思っているのだが、それがいけない。今日の基礎ゼミナールの授業も、ストレスを与えてくれる場である。

 基礎ゼミナールは、今年から全学的に始まった授業で、どうなるか実験的に始めた授業なのだが、特に私の学科では教員に戸惑いがある。教員みんな手探りでやっているのが実情だ。それでも、こういう、教員がみんなで学生に同じような授業をする試みは意義がある。ただ、どうしても教員によって差が出てしまう。学生もそのことに不満を言う。

 みんな努力しているのだがそれが良い結果に結びつかない場合もある。私は責任者なので、実は、この基礎ゼミの推進役は私なのだが、授業が上手くいかないからといって音を上げるわけにはいかないのだ。

 まあ何とか学生達とは仲良くやっているとは思っているのだが、学生達がどう思っているかはわからない。彼等にとって大事なことはきちんと伝えているつもりだが、時に反応が無いときなど、教員はみなそうだろうがストレスが溜まる。次は何とか頑張ろうといつも思う。

 今日の基礎ゼミは、ミニレポートを授業中に書いてもらうという授業だったが、時間が足りなくなり、なとんなく宿題にして欲しいという雰囲気だったので、宿題にして授業自体を早めに切りあげた。テーマについて説明をしたがほとんど聞いていない。一旦集中力を切らせてしまったら話をしてもだめである。反省した。

      蝸牛じいっと見つめる教師居る

目からうろこ本2007/06/19 23:50

 通勤時間で時々本を読むのだが、疲れてくると論文系の本は読めなくなる。そういう時は、週刊誌か、キオスクで買った暇つぶし本を読む。でも多少は知識が増えないとつまらないので、目からうろこ本(これは私の命名です)を読む。いわゆる雑学系の読み物で、駅ナカの本屋に必ずある本だ。
 
 今日、川越駅の駅ナカの本屋で呉智英の「言葉の常備薬」という新書を買って通勤途中に読んだ。呉智英の本は昔から好きなので、とりあえず間違いはないだろうと買ってみた。けっこう面白かった。

 ほとんどが漢字の読みや語源に関する雑学だが、私の研究範囲と重なるものもある。例えば、森と林はどっちが木が多いか、という問い。ほとんど森と答えるだろうが、実は、これは同じことを別の概念で言っているだけだという。例えば、照葉樹林や熱帯雨林、原生林という言い方でわかるように林もまたジャングルや森を意味する。

 森は日本では聖なるイメージでとらえられているが、それは、森が木自体ではなくその土地をも意味するからだという。例えば鎮守の森というようにである。林はたくさん生えている樹木を指す概念。そういわれるとなるほどと思う。

 それから「すし詰め」という言葉の語源。どの辞書にも折り詰めの箱に鮨が隙間無くつまっていることとあるが、これは間違いだという。本来、鮨の始まりはなれ鮨であった。なれ鮨は、壷の中に米麹、塩、魚を交互に隙間無く詰めて発酵させ、何年も保存をしておくものである。それが日本に到来して鮒寿司になり、今の江戸前の鮨になったというわけだ。ぎっしりつまっている状態とは、このなれ鮨の方だというのである。確かに、折り詰めの中の鮨は、多少隙間があいている。だから、傾けたり倒したりすると中の鮨が片一方に偏ってしまう。ぎっしり隙間無くという意味ではないな、と思う。

 今年の3月に雲南省に行ったときに市場でなれ鮨を売っているのを見て感動したのを思い出した。竹の筒の中に魚がぎっしり詰まっていた。やはり「すし詰め」というのはこっちを言うのだろうと合点した。 

 昨日の血糖値の値が基準値をオーバーしていた問題。実は、血液検査の時に食事をしていたことを思い出した。実は、血糖値の標準の基準値は、空腹時のものであって、食事をした後に計ると当然値は上がるのである。それを思い出して少し安堵。でも、元々基準値をオーバー気味だったのは確かで、油断してはならない。

    夏草の繁き思いを探しけり

ちょいワルおやじにはなれないが…2007/06/20 23:59

 先週の日曜に癌の友人を見舞ったが、彼が吉野家の牛丼が食いたくなって高田馬場の吉野家まで食べに行ったと話していた。実は、彼はほとんど体力がなく、近くのコンビニにいくのもやっとという調子である。彼が住んでいるのは玉川上水だから、高田馬場は近くはない。何で高田馬場の吉野屋なんだと聞いたら、そこしか思いつかなかったという。

 考えてみればかなりの遠出で、大変な思いをしていったわけだが、全部食べきれなかったと残念そうに語っていた。でも、いい運動になったし、そういうように動けば体力もつく。やはり動かなくてはだめである。結局、身体を動かすための最大の動機は欲望なのだ。私は食通でもないし、食に執着がないので何処何処の何が食べたいなどと一度も思ったことがない。だから、私が末期癌だったら絶対にそんな欲望は起きないだろう。結果、すぐに死ぬだろう。

 過剰な欲望は身を滅ぼすが、適度な欲望は必要なのだ。だが、この歳になると欲望というものに縁遠くなるし、楽に生きたいと思うから自然に欲望に対して抑制的になる。が、その結果、鬱になることがある。中高年になってよく鬱状態になるものがいるが、よくわかる気がする。欲望が少なくなっているのに、過剰なほどの仕事をこなさなきゃいけないのだ。欲望があってこそ、アドレナリンが効いて仕事をこなそうというものだ。しかし、欲望に抑制的に生きていたら、過剰な仕事量は、生きていることの楽しさを根底から奪う。中高年の自殺が多いのはそういうところから来ているのだろう。

 ちょいワルおやじが流行るのは、枯れかけている欲望をいかに回復させるかという、切ない試みである。むろん、そうやって消費させて儲けようとする企業の戦略があるのだとしても、まあ、鬱で暗くなるよりは、恥を捨ててちょいワルな格好をする方がましであろう。私には無理だが。

 心の問題を抱えている学生を見ていて思うのは、最初から欲望に抑制的だと見えることだ。それは欲望がないということではない。欲望の実現への自信が無く、抑制することで欲望が実現されないときのショックを回避しようとしている、ということだろう。だとしたら鬱になるのに決まっている。

 教員の仕事とは、実は、学生の欲望に実現への夢を与え、実現するためのプロセスを教えてあげることでもあるのだが、何せ、こっちがときどき鬱なものだから、そんなふうには上手くはいかないのだ。私はいつも暗い顔で教室に入っていくが、しゃべり出すと楽しそうにふるまうようにしている。仕事は楽しくやるのがモットーである。あんまり欲望はなくなったけれども、それでも明るく仕事はしているよ、という姿を見れば、学生だって少しは元気になるだろう。そう思っている。

    夏草の萎えたるごとく座りたり

大腸検査をしました2007/06/23 00:56

 今日は大腸検査ということで国立まで出かけた。国立の小さな診療所だが、内視鏡ので大腸検査では評判がいいのでここに行っているのである。実は、去年、ここで検査してポリープか見つかった。良性だったのでよかったのだが、一年後に又検査ということで、今日検査しに行ったのだ。

 昨日から余り食べずに、下剤をのんで、朝9時に医院に行くと、今度は、腸を洗浄する塩水を2リットル飲まされる。それでも足りなくて、今度は、お湯で3回ほど浣腸された。腸をすっかり洗浄するというわけだ。これがけっこう面倒である。洗浄に3時間かかった。

 それから点滴で麻酔を打たれうとうととしているまに検査は終わる。苦痛も何もない。とても楽な検査である。小さなポリープが二つあったので切っておいたと言われた。良性か悪性かの結果は来週出るという。去年よりポリープが一つ増えていたのが面白くないが、大きなものでないというのでひとまず安堵。

 家に帰ったのは5時で一日かがりの検査であった。昨日から何も食べていないのでふらふらである。夕食は消化のよい、西洋風おじや。

 今日は近くのレンタル店でDVD半額なので、「ドリームガールズ」を借りてきて見る。とても本を読む雰囲気じゃないので、久しぶりに映画を観ることにした。なかなか良く出来た映画だ。かつてのザ・シュープリームズをモデルにした映画だが、ダイアナロスを演じた、ビヨンセ・ノウルズもうまかったし、エフィを演じる新人のジェニファー・ハドソンが、主役を食ったと言われてるが確かに迫力はあった。アカデミー助演女優賞も確かとった。

 面白かったのは、黒人の歌の基本がソウルであるということが何度も強調されることだ。成功するとソウルの魂を失ったダンスミュージックを歌い出す。そのことに幻滅し、そして、みなソウルミュージックに帰るのである。この映画の良さは、このソウルの価値を取り戻すというところにあるのかも知れない。

 とにかく今日は検査疲れで病人として過ごした。いろいろとやらなきゃいけないことは山積している。明日から健康体に戻って仕事である。

     夏草や黄泉比良坂見えぬほど

枕詞や序詞2007/06/25 00:01

 土日は久しぶりに川越の家で過ごす。枕詞や序詞関係の論などを読んではいたが、本を読むとすぐに眠くなるのではかどらない。チビの散歩やささやかな庭の雑草取りなど、家の仕事などして、何となく過ごす。

 たぶん、土日こんなにしてられるのは今週くらいだろう。来週は、土曜に会合があり、日曜には科研関係の会合、その次の週は土曜日に学会シンポジウムと、7月の土日の予定はほぼ埋まっている。

 DVDの新作も話題作が出てきたので2本ほど見る。007の新作「カジノロワイヤル」と「武士の一分」を観る。新しいボンド役のダニエル・クレイグはショーンコネリーの次くらいの適役か。今までがひどかったから。それにしてもショーンコネリーの色気とユーモアはなまじの俳優ではだせないものなのだと思った。

 「武士の一分」は、山田洋次サムライもの三部作では一番良かったのではないか。筋に多少無理がある気かしないではない。不倫をする妻は、常識的には生きてはいないはず。なのに、最後は復活してよりを戻すのは、都合がいいといえばいいが、しかし、それが救いだといえば救いだ。この都合の良さは、ある意味では、封建社会の倫理に対する人情の側の抵抗なのだろう。そのメッセージのシンプルさがこの映画の良さということになろうか。

 枕詞や序詞とは、結局、意味を越えてしまう極めて効率的な修辞であるということである。ある意味の連続性を断ち切るところに枕詞や序詞の意義があるということだ。むろん、意味を断ち切ることで、別の意味が現れるが、それは、比喩的な効果のなかに暗示されるというような意味ではなくて、何となく立ち現れる歌の雰囲気のようなもの、と言うべきか。

 それは一種の神秘化とでも言えるかも知れない。神話の叙事は、その物語の自立した世界に読み手を巻き込むことで神秘化を果たすが、歌は、その言葉の意味の非連続の連続とでも言うべき働きによって神秘化を果たす。その神秘化を担って居るのが枕詞や序詞だと考えればよい。中西進は、その非連続の連続とも言うべき、物と心の言葉の関係は情調性だと言う。どういうことかそれ以上詳しく述べていないが、何となくわかる気がする。それを考えて行けばいいのだと思いついたのが、収穫ではあった。

    雲白く夏野を駆ける犬二匹

いろいろと大変…2007/06/27 00:56

 こんなに会議が続いたのは久しぶりだ。朝の10時半から会議が始まり、いろんな会議が続いて、終わったのが夜の八時半。昼は食べる事が出来たが、夕食を食べる時間はなかった。帰ったのが10時半で、それから軽い夕食。ここんところコレステロールとか血糖値が高めなので、まあ、これでいい具合なのかも知れない。

 そろそろ来年のカリキュラムの話が始まったので、会議が続いたというわけだ。私は、あっちこっちの委員会の委員をしていたりするので、次から次へと会議が続く。さすがに疲れた。帰りは、東上線のみずほ台で人身事故があったとかでダイヤが乱れている。まいった。

 昨日は、非常勤のE君と神保町の中華料理屋でビールと夕食。彼は41歳の誕生日だということだが、なかなか専任校も決まらないので、祝うというよりは、なんとなくもうちょっと若けりゃなあ、という話になった。教員募集の場合、若手は40歳までがほとんどだ。それを過ぎると、相当の業績がないと難しくなる。彼は、ドクターも持っているし、著作もある。有望だが、相当な業績となるとまだである。まあ、着実に業績を積み上げていくしかない。考えてみれば、私だって、専任校を持ったのは45歳の時だから、そんなものなのだということもできる。この業界、ちゃんとした就職は高年齢なのが普通なのである。

 今日の会議の一つが就職進路課との話し合い。うちの短大の学生は新聞を読まない。ニュースはテレビかパソコン、携帯で見るだけ。だから、企業の就職試験でグループディスカッションをすると話についていけない、先生何とかしてほしいと言われた。確かに、そういえば、新聞は読んでなさそうだなあと思う。

 基礎ゼミでもグループディスカッションをさせると、ほとんど雑談が中心になりなかなかまとまらない。文学や文章の書き方の指導はお手のものだが、それ以上の指導はなかなか難しい。教員も大変な時代になった。今週のアエラに、学生を一人にさせない大学、といった特集記事が出ていた。要するに、大学の教職員が、コミュニケーションが上手く取れない学生などに、心のケアや生活指導などを丁寧に行う、そういう大学が増えているという内容だ。実は、私の学科でも同じことをやっている。私のところに取材にきてもいいくらいだ。ただ、来てもらっても成果が上がっているわけではないので困るけれど。
 
 教員で10分遅れて教室に入ってきて学生に何も謝らない、と感想を書いた学生がいた。こういう時代になったのだ。かつて、大学の教師は10分遅れて教室に行き、10分早く教室を出るのは当たり前だった。私の学生時代はそれを当然だと思っていた。時代は変わって、そういうことは出来なくなった。悪いことではないにしても、それをいいことだとも言えない気はする。

 学生の感想は当然である。教員はそのことを理解しなければならないが、何となく寂しい気がするのは、人と人との間の遊びのような隙間がどんどんなくなっていく思いだろうか。学ぼうと思えばどんなだめ教師からも学べる。こういう人間が世の中にはいて教師をやっているという事実の確認だけでも、大いに得ることはあるのだ。そういう意味での学びのスタイルが消えていくことの寂しさなのだろう。

      団らんもそこはかとなく短夜や

鈍感なのだか…2007/06/29 01:15

 今週は帰りが遅い。昨日(水)は、後援会との懇親会で、夜遅くなった。いつもなら泊まってしまうのだが、家に帰った。今日奥さんは山へ行っていない。私が帰ったのは8時半、コンビニで弁当とおかずを買い、ビールで夕食。電話をしたら、出来たばかりの圏央道を使って中央高速で行ったという。川越から諏訪南まで5050円かかったそうだ。八王子から南諏訪まで3400円だから、1650円高いということになる。が、時間は2時間10分で着いたということだ。ほとんど高速で、諏訪南で降りて25分ほど山の家に着く。

 いつもは、川越から、関越を使って佐久インターで降りて、そこから一時間ほど一般道路を走るのだが、佐久まで料金は3400円、時間は通常2時間40分はかかる。さすがに早くなった。が、金もかかるようになった。だいたいやってることが矛盾しているのだ。自然の中で生活したいので山小屋に行くのに、行く手段には便宜性や効率性を求めてしまう。ゆっくり楽しみながら行くなんて余裕はないのである。

 T君のブログを読むと論文や仕事で大変そうだ。仕事の量では私も負けてはいないが(こんなことで張り合ってもしょうがないが)、最近流行りの鈍感力では私の方が勝っているようだ。忙しい奴の性格はだいたいわかっている。たいていは自分で何処か意識的に忙しくしている。それは時に自虐的と言えるほどだ。一種の中毒症状とも言える。

 その理由は、何処かで自分というものがよくわからないと思っていて、他者への依存或いは被依存、他者との緊張や親和的関係といったものによって、自分を支えているからだ。要するに、自己中心的でなく、わがままでないのであって、共同体依存型とも言うべき心性を抱えている。真面目だということである。こういうタイプは忙しくないと空っぽの自分に向き合う気がして恐いのである。ほぼ私のことであるが。

 こういうタイプは鬱になりやすい。私も多少鬱気味のところがある。人もそう思っているだろう。が、それでも、何とかやっているのは、鈍感であるからだろう。人に気を遣う割には人を傷つけたりするらしいのだがそのことに鈍感であったり、人から傷つけられたりすることに鈍感であったり、いつもだめだなあと反省はするが、すぐに忘れたりと、歳のせいというよりは性格の問題として鈍感なところがある。

 こういう鈍感さによって失敗することもあるが時に救われることもある。そんなものである。鈍感でない人間に共通するのは、失敗や他者からの非難を恐れるように自分を構えさせておくことだ。失敗したからといって、自分が思うほどには他人は気にかけないのに、それを認めたら自分は自分で無いとでもいうように振る舞う。

 生きることとは、日々の具体性の持続であって、その渦中に入り込むことである。そこから出て生きることと向き合ったら、それは生きていることではなくて、生きることを自分の中で反芻する過剰さである。言わば生きることという意味の消費であって、見方を変えれば病であるには違いない。

 現代を生きることは多かれ少なかれ意識の過剰さを強いられる。言わば自分が生きているということ自身を消費することを強いられる。そうしないで生きられることは極めて特権的であるか、この世を普通には生きないもしくは生きられないということである。とすれば、生きることの意味に対して神経を研ぎすましながら同時にそのことに極めて鈍感であるような、矛盾した、あるいは都合のいいような振る舞いが求められる。

 その危ういバランスをとるには、今は鈍感さを強調した方がいい。とはいうものの、岩波の古代文学の座談会がせまっていて、私は何をしゃべっていいかわからない。せっぱつまってきた。なかなかアイデアをわき出してくれない私の鈍感さがうらめしい。

    ぼんやりとただ蚊遣火を見つめたり

三日坊主理論2007/06/30 23:55

 ここのところさすがにブログは毎日書けない。ブログを書いている暇があったらこの仕事をしろ!とでも云う声が聞こえそうで、何となく落ち着かないのだ。といっても、家に帰ってきて、いつもがむしゃらに本を読んだり論文書いたりしているわけではない。とりあえず脱力の時間を作る。そのうちそろそろ仕事をしないとやばいぞという気分になってきて、机に向かうというわけだ。

 昔予備校で教えていたとき、三日坊主理論っていうのを予備校生に語っていた。何をやっても長続きしない人、心配はいらない。さあやるぞと初めたことを三日坊主で辞めてしまっても、それも長続きはしない。だから、三日過ぎたら又始める。それも続かないが、どうせ又始めるのだ。計算すれば、ある期間の半分は何かを一生懸命やっていることになる。それってけっこう効率悪くないじゃないか、という屁理屈である。

 やる気がなくなったらとりあえず辞めてみて、気分が乗ってきたらまた始めればいい。そういうだらだらなやり方で長続きさせる方が、必死に頑張って途中で力尽きてあきらめてしまうよりはいい。その良い例が私なのだ。私は、あきらめが悪いので持続力だけはある。一応それを糧にして研究生活を未だ続けている。

 だから忙しい忙しいとやたらに書いたり言ったりしているけれど、ほんとに死ぬほど仕事をしている人ほどではない。適当に力を抜くところは抜いているつもりだ。ただ、世の中甘くは無いときもあって、力を抜けないときや、力の抜き方を間違って余計に忙しくなる事がままある。そういう意味では、そんなに要領が良いわけではない。

 昔(二十代前半)、文房具の配送の仕事をしていたとき、注文の伝票を見て商品を揃えそれを箱詰めしてトラックに積んで、配達に出るのだが、私が一番早くそれを自慢していたりした。どうも、そういうところに妙に頑張る癖がある。今忙しいのはそういうところに原因がある。反省しなくては。

 金曜に先週の大腸検査の結果が出た。ポリープは良性であるということで、一安心。しかしどうして毎年出るのかと聞いたが原因はわからないとのこと。コレステロール値が基準値より高いので食事に注意して運動するように言われた。そんなこと、検査を受ける度に医者に言われ、毎日のように奥さんに言われている。努力もしているが、これ以上、値を下げるためには、運動や食事に人生の目的を賭けなきゃならない。そんなことに人生を誰が賭けるものか。 

 今日は、岩波の古代文学特集企画の座談会の打ち合わせ。私の研究室というよりはオフィスに集まった。一応管理職なのでオフィスがあるのです。テーマは八世紀の文学。それぞれ時代区分毎に担当して話そうと言うことになり、私の担当は八世紀中期の家持の時代になった。一月後まで私は勉強しなきゃならない。けっこう大変である。終わってから、神保町のビヤホールランチョンでビールを飲んで帰る。なるべくつまみを食べないように注意した。明日は、また別の会合で、夜は飲み会になる。当分メタボに悩まされそうだ。
  
     形代でさする仕草や夕の刻