川上弘美『真鶴』を読む2007/05/14 23:57

 昨日、佐倉の歴史博物館の往復の電車の中で川上弘美の『真鶴』を読んだ。さすがに文体だけで読ませる人だ。ただ、ちょっと、疲れる小説だ。川上弘美のいいところは、こういう疲れを残さないところだったのだが…。

 10年前夫に失踪されてしまった女性の孤独な内面の物語だが、もう一人の自分なのかそれともただの霊なのか、あの世の女との対話を通して物語は進む。疲れるのは、行き場がないということが最初からわかっているジレンマを、ただシチュエーションの奇抜さだけで長引かせている、という印象だからだ。

 このシチュエーションは、言わば巫病の心理状態と言っていいだろう。現実の不幸な出来事がきっかけで精神の変調を来した女性のその狂気の様子をたんたんと綴った小説と見ればいい。神ではないが霊と話し始めることで、現実と、乖離した世界との往復がこの小説のシチュエーションである。

 読んでいて疲れるのは、この巫病に主人公の女性が耐えてしまうところだ。川上弘美の主人公のいつものように、こちら側なのかあの世なのか煮え切らずに存在する例の調子で耐えるから、この巫病がいつの間にか内面の物語にすぎなくなってしまう。シチュエーションの割にはどこかで読んだ感のある小説になってしまった、というところか。

 今日の基礎ゼミナールはいつも苦労する。今日は放送大学の講義のビデオを見てもらいノートをつけさせた。そのノートを回収し、良いノートの例を次に発表し、ノートをつけるテクニックを教えられたらいいと思う。

 が、実はテクニックなどはない。要するに理解力だ。全体を見る力であり、ポイントを押さえる力である。授業も本もそうだが、90パーセントは具体例である。残りの10パーセントがその具体例を通して伝えたいポイントということになる。その10パーセントをとらえ、その10パーセントを説明するための90パーセントをどれだけ効率的に短くできるかが、ノートのこつ。実は私はこういうのが苦手である。

 私は、ノートをあまりとらずに、その10パーセントは何か、ということだけを聞き漏らすまいと話を聞く。そういうタイプなので、私に出来ないことを学生に教えることは辛いことであるが、テキストに書いてあることなので仕方がない。

 ビデオの内容は、千葉県匝瑳郡光町の芸能「鬼来迎」の紹介。講師は三隅治雄。図書館で探したが、私の興味にも合致したので借りてきた。私はこの「鬼来迎」の芸能は知らなかったのでとても面白かった。

    五月晴大きな空に犬吠ゆる