後ろ向きの生き方2007/05/12 00:38

 最近よく忘れることが多い。大事なものをよくなくす。理由は、何処かに置いたりしてそこに置いたことを忘れる、というパターンだ。気がついてあちこち引っかき回すがだいたい出てこない。

 一つは性格の問題。几帳面でない性格がこういう事態を懲りずに繰り返させる。それと年齢の問題。集中力や、記憶力の減退は否めない。昨日のことが思い出せないなんてのはまだいいほうだ。今日のことだって思い出せないときがある。それはそれで便利な時もあるが、それが大事なものを無くしたりすることにつながるとやはり落ち込む。

 最近宿命というものについて時々考える。文化論として、少数民族の人たちのことを考えるとき、われわれの社会の価値観で把握するには限界がどうしてもある。例えばこれはアジアでよく聴く話だが、モノを壊したとき、そのモノは壊れる運命にあったのだと言う、壊した人間の責任を言わない。こういう発想なら、たぶん、落ち込むと言うことは無いだろうなあと思う。

 実存主義はこのような宿命論をどのよう考えるのだろうと思うことがある。実存主義とは、「投企」という言い方であらわすように、存在という意識そのものは常に世界に向かって(前向きに)投げ出すその存在のあり方によって成立する、というもの。 

 つまり、前向きに自分という存在を得たいの知れない世界に向かって投げだすことが出来ないときは、そこには存在そのものが成立しなくなってしまう。サルトルが「嘔吐」で、前向きに生きられなくなった者が世界に対して突然違和感にとらわれるのを描いたのは有名だ。

 しかし、人間は結構前向きでない方が多い。宿命といったものにとらわれて、前向きに生きること自体の空しさを悟る、ということだってある。そういうとき、人間は存在そのものを失うのだろうか。現象学もそうだが、意識自体の成立は、存在が他へ関わろうとする動き自体なしには成立しないという考え方をとる。それはそれでいいと思うが、なにかしっくりこない感じを持つのは、人間はいつもそんなに前向きには生きられないよ、と思うからだ。

 脱構築派はラカンもそうだが、意識以前の無意識の段階での、混沌や無秩序をより積極的に(前向きに)評価するというものだが、それは、意識的な秩序の一つの批判や乗り越えであって、それも疲れるという気がする。

 前向きの挫折として宿命とかいう生き方があるのだと思わない。あるいは、宿命と言ったとらえ方が、より前向きな思想などとも思わない。ハイデッカーの言う「存在」は、意識を根拠づけるものとしての「気遣い」のようなものを想定するのだから、ある意味で宿命に近い気もするが、それでもやはり前向きだ。

 これは宗教と哲学の違いなのだという気もする。宗教は死という絶対性を積極的に受けいれて、生そのものを後ろ向きに把握する。それが宿命なのだとすれば、哲学(西欧)は、死に果敢に挑戦する姿勢で死から遁走しようとする。死とは、意識が向き合う名付けられない世界そのものであって、そこに前向きに向き合うことが意識という名の存在を成立させるとすれば、死にいつも対抗しなければ意識は成立しない。前向きとはここでは死への対抗であるからだ。が、それは、死からの遁走そのものでもある。哲学は背理を背負うのだ。

 生を後ろ向きにとらえるということがもっと見直されてもいいのではないかと思う。少なくともそれは、死に対抗しながら遁走するという背理ではない、死を受けいれる素直な生き方である。こういうことを考えるのは歳を取ったからだと思うが、ただ、文化論として、案外こういう考えはあるのではないかと思うのである。

     新緑溢れ蟻は死骸を運ぶ

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