無垢は罪か2007/05/06 19:38

 昨日は学会のシンポジウムで茅野から東京に往復。会場は私の勤め先で、しかも休日だから責任者の私が行かないとシンポジウムが開けない。会場校となるとやはりいろいろと大変である。

 天気が良くて暖かかった。特急あずさはそれほど混んでなかった。シンポジウムは中世和歌のY氏と古代のIさんとの「しらべ」をめぐるもの。しらべについては岩波の座談会でも話題になり、今回も興味を持って聞いた。

 Y氏の話も、座談会の時より氏のこだわりがよくわかって面白かった。和歌を論じることの転倒せざるを得ない論理に、むしろ和歌の可能性を探ろうとする方法論は面白く、演劇を通して身体というものに向き合っている人の語り口だなあと感心した次第だ。

 ただ、気になった言い方があった。それは、斎藤茂吉の実朝の歌への評を「うさんくさい」と言ったことで、会場からの質問の時にとりあえずそのことについて反論はしたが、テーマと外れるので、あまりつっこまなかった。

 氏の言うには、個人(斎藤茂吉)の内面のある欠落を歌(実朝の歌)への感動によって埋める時に、その説明として古代的な幻想を作り上げあたかも古代がそのようなものだと言い立てることを「うさんくさい」という。むろん、これだけで「うさんくさい」のだったら、古典を読んで感動してそこにそれぞれの古典的な世界像を思い描くわれわれはみんな「うさんくさい」。それこそ和歌に自分の内面の何かを托して語るY氏もまた「うさんくさい」はずだ。

 確かに、内面の補填として描かれるある像は信憑性がないかも知れない。しかし、学問の始まりとは常にそういうものであろう。批判されながらその像を修正したり断念していくものだ。それをその始まり最初を「うさんくさい」と言われたら、それはたまらないのではないか、というのが私の反発した理由であった。

 むろんY氏の言い方はもっといろいろな言説のバイアスに圧されているので、そう単純でもない。和歌の捉え方の違いが氏と茂吉との間にはあり、茂吉の和歌の捉え方そのものが、反動的なものとして利用されるという思いがある。和歌が政治的に利用され古代的幻想が国家主義に的な意味合いを帯びたという反省である。つまり茂吉の古代幻想そのものが政治的な言説になってしまうことの「うさんくささ」といった意味であろう。

 そういう意味での「うさんくさい」はわからないではない。だが、この問題は実は現在のわれわれの研究の言説をめぐるやっかいな問題でもある。茂吉の和歌の捉え方とY氏の捉え方の違いはそれ自体問題ではない。問題なのは、ある研究の言説を批判するとき、その言説の政治性に言及するという批判の仕方である。

 茂吉が実朝の歌に古代を幻想したその論理は、論理として無防備あることは間違いがない。その論理の時代への影響やそれが百年後に反動的だと批判されることなど予想もしないで、それこそ率直に提示されたものだ。つまり、論理自体の政治性や時代性や秩序に対する脱構築といった可能性が最初から想定されていない、という意味で、無防備なのであり、そこにはメタ的なレベル(ある論理を相対化するより高い次元の視点)もない。

 このような論理は、最近のアカデミズムの言説の格好な餌食である。というのは、最近のアカデミズムの言説は、ある事柄に感動してある像を無防備に述べる言説を、メタ的なレベルから、その言説が時代の反動性に対して何ら防御していない(脱構築していないというのがはやりの言い方)ことの無知を徹底して攻撃するというものだからだ。

 だから、最近の研究の言説は、最初の感動を語らずに封印し、その言説の政治性やメタレベルへの批判に耐えうるようにメタ的レベルを競うという言説になる。何故こういうことになるかというと、メタ的レベルとは、他の言説を批判できるが自分への批判は出来ないレベルだからである。かくして、文学研究者が、文学という言語にかかわる動機(内面)を徹底して隠し、文学という制度をいかに解体するか、つまり文学にかかわる自分や他人をいかに批判し得る地点に立つか、ということのみに精力を傾ける、という構図ができあがってしまった。そこから何も生まれないことは、そろそろみんな気づき始めたようだが。

 ところで、私が和歌という研究が好きなのは、この分野ではまだこういう徒労な言説がはびこっていないことも理由の一つである。Y氏もまたそういう言説とは無縁な人である。だが、「うさんくさい」発言には、ちらとそういうニュアンスを私は感じ取った。というよりそういう構図に乗って発言した。メタ的レベルで武装したガンマンが無防備の相手を銃で撃つような発言だったように思う。

 斎藤茂吉は無防備である。だから斎藤茂吉に罪はないと言っているわけではない。たとえばY氏は感情を鎮めたりなだめたりするところに和歌の本質があると語る。私はこの和歌観をうさんくさいとは思わない。共感するところがある。ところが、安倍首相が「美しい日本」を語るときに、Y氏の和歌観をとりあげ、ここに美しい日本があると語ったらどうだろう。あり得ることである。おそらく、そこからY氏の和歌観は「うさんくさい」という批判があちこちから起こるだろう。その場合、Y氏に罪は無いのであろうか。

 どんな言説も無垢ではあり得ない。だが、無垢は悪ではない。それを悪だと言ったら、研究など成立しなくなる。誰だって損得抜きで取り憑かれたように学問している。それはある意味で無垢である。それを悪といえない。が、現実は無垢ではあり得ない。それなら、メタ的レベルに武装してからでなければ、学問は世に問えないのか。これはかなり難しい問題である。

 最近は、安倍首相に利用されたY氏の言説(これは架空の話です)の無垢さに罪がある、というように強調される傾向にある。そうではない。無垢な言説などないことを前提にしながらも、その言説がさまざな位相で違う意味を帯びる、ということの問題である。この構造的な問題を、構造の一部である研究の言説が、脱構築するように全部を相対化するのは無理である。それは研究者に超越的立場に立つ神になれというものである。

 研究の言説とは難しい。率直に語れば無防備になる。かといって防御をしすぎれば空論になる。神のごとく超越的立場(脱構築の立場もそうである)には立てるまねごとはできても実際は誰も立てない。が、研究者もまた考える人であり、歯車の一部のように構造の一部なのではない。その意味では無垢などあり得ないことを自覚しなければならない。だとすれば、その言説の利用のされ方に責任などないとは言えない。

 結局、それなりに自分の言説に責任を持てという当たり障りのないところに落ち着くしかないが、この問題の難しさに自覚的であれば、簡単には、あなたの言説は罪であると批判はできないのではないか。なぜなら、それは全部自分にふりかかってくる問題であるからだ。
   
 シンポジウムの場で議論をしたらここまて言いたいことが言えたかどうかは分からないが、事後的にいろいろ考えると、私の言いたいことはこんなところだった。むろん、これはY氏への批判ではなく、時にそういう言説をする私も含めて、われわれの研究の言説に対する、ささやかないちゃもんである。

     山里の遠き桜よいつも独り

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