脱構築派批判2007/05/04 23:50

 連休は山小屋で過ごしているが、例年の通り教え子のS夫婦が子ども連れで来たりとか、知り合いの家を訪れたりとか、それなりに忙しい。今蓼科湖の桜が満開でとてもきれいである。天気もよくなり、八ヶ岳もよく見える。

 去年取材した歌垣の日本語訳をしようと取りかかったのだが、中国語と格闘する心の準備が出来ないうちに、読もうと持ってきた竹田青嗣『言語的思考へ―脱構築と現象学』(怪書房)を読み始め思わず読破してしまった。二日間、ほとんどこればかり読んでいた。

 現象学は竹田青嗣がいろいろと整理して書いてくれているから、自分で読まないですむ。ありがたいことである。フッサールは何回か読もうと決意したことがあるが、途中で挫折した。私の最初の本『北村透谷の回復』を出したとき、竹田青嗣に帯の文章を頼むことになつていた。ただ、忙しい人なのでかなり遅れるという返事をもらって断念した。今でも残念である。

 現象学的理論による言語理論の本だが、主にヴィトゲンシュタインやデリダの批判になつていて結構面白かった。脱構築は、現代思想を席捲したタームだが、何故、言語理論としてよくないか明らかにしてくれている。ありがたかった。

 デリダの言語理論の核心は、言語の体系や構造とは、実体としての真理や意味あるいは先験的な観念の体系など持っているわけではなく、それ自体つきつめれば、最初の差延(差異)から派生する戯れの秩序であって、それ自体意味を決定できない不完全さそのものである、というものである。要するに、意味の秩序を超越的に設定する従来の哲学や言語理論の前提そのものを抜け出(脱構築)そうとする意図に貫かれた思想である。難しいが、最近の古代文学の研究も実はこのような理論に結構影響されている。実は私だってデリダの理論は結構使わしてもらった。

 竹田はこの思想の必然性を認めながらも、言語理論としては誤解に基づく理論だとして批判する。誤解とは、言語の意味に対する把握が間違っているというのである。脱構築派の意味論は、意味の体系そのものが、それ自体戯れのような不確定性そのものであるから、言語は本質的に意味を構築できない不安定さそのものである、というところに行き着く。が、それなら、何故、言語を論じる当人の理論が、あるいは言語の意味を普段に使っている我々は、その不安や不確定性に惑わされずに、自分の意志やあるいは生そのものを普通のまっとうなものとして成立させ、それを相手に伝えることが可能なのか、この問いには答えられないだろうと竹田は言う。

 言語の意味とは、発語主体と記号としての言語と受け手主体との関係における信憑によって成立するのであって、意味の体系とか(差異の体系としても同じこと)にあるのではない。つまり、空は青い、というとき、その発語主体の実存的な意味での世界(自分や他者あるいは外界)へと身を乗り出す(企投)その前向きの意識が、共有される(普遍化される)ことにおいて初めて、言語は意味として現れることを可能にするというのである。

 空は青いというとき、受け手は、その言葉の発語主体と、世界へ関わろうとする前向きの意識を共有する。その条件のもとで、言語コンテクスト(どのような状況で発語されたか)を理解し、妥当な解釈の元でその言葉の意味を受け取るのである。つまり、そこには確信成立とでも言う信憑構造が成立しているのであり、空は青いという言葉を、何を言っているのかわからない不確定な言葉として受け取って混乱するというようなことはないのである。

 ところが脱構築派は、空は青いという言葉は、それ自体多義的な言葉であって、何も伝えることは出来ないと考える。なぜなら、この言葉の背後には潜在的な様々な解釈可能性があり、この言葉の主体と言葉は断絶している以上(作者の死)、これは言葉の戯れであって、決定不可能性を孕んだ言葉だというのだ。

 竹田は、このような考え方は、言葉は本質的に確信成立によってその意味を意味たらしめているという意味の問題を全く理解していないことから生じると批判する。つまり、どんな言葉もその言葉を言葉たらしめようとするある前向きの姿勢(確信成立)があるのであって、それを切り捨てたとき、言語は、ただの一般的な意味の秩序づけられた集合に過ぎない。そこでは、言葉の意味自体は確信を与えられないから、多様な意義に潜在的には代わられる必然を持ち、従って、言葉の意味は絶えず可変的で決定不可能のような戯れの様相となる。デリダはこのような言葉の意味の本質を捨象したところで言語理論を論じているのであるから、その論理は間違っているというのである。

 デリダら脱構築派は、結局、意味の体系を神のごとくに超越的に設定するヨーロッパの伝統哲学を、結局は神はいない、と反転させただけではないかという。あるいは、脱構築の果てに虚無かもしくは自由があるというのなら、それ自体すでに神のごときものであって、その意味では、脱構築派は、ヨーロッパの伝統的哲学を反転させただけの理論でしかない。このことをついたのが東浩紀の否定神学という脱構築派批判である。竹田はこの否定神学という批判を評価する。つまり、脱構築は、そこには戯れしかないという意味の超越的な神を見出しただけだったということなのだ。伝統的な神学であるヨーロッパ哲学を否定する論理自体が神学になっている、という批判である。

 そうか、脱構築派は今だめなんだ、というのがこの本を読んだ感想。あんまり脱構築していなくてよかった。だが、文学の特に詩表現や、あるいは、時に戯れなどと呼びたくなる言語表象をどう扱うかは、古代文学研究にとっても大事な問題だ。

 竹田の言い方では、ある文章が言語の戯れに見えるのは、そこから確信の構造(私の言い方で言えば発語主体の前向きの姿勢)が捨象されているからだ、ということになる。その捨象のレベルをどのように判断するかが問われるということだ。その文章を読む研究者のレベルなのか、それとも、その文章の書き手においてそれがすでに生じているのか、ということだ。少なくとも、アプリオリに戯れがあると評価して読むと、それはロマン主義的な神学かもしくは脱構築派の否定神学になるおそれがある。

 私は、竹田の理論は納得している。というのも、折口もあるいは時枝の言語論も竹田の現象学、実存的と言ってもいいようだが、その理論にしっくりいくからだ。ただ、最後にそれなら、確信の構造があるとして、それでも戯れが起こる。完全に捨象は出来ないからだ。それは何故か。それが詩的な表出としての意図的な技巧であることを別にすれば、確信の構造と言語の表出の間には「ゆらぎ」があるからだということではないか。

 つまり、確信の構造もそれほど安定したものではないということだ。

    風に従うの逆らうの鯉幟

五月の空俺は自力で泳いでいる

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