戦略的護憲論2007/05/04 01:42

 今日は憲法記念日でテレビではどこでも改憲論議だ。憲法改正をめぐる議論は、言論界のみならず、学会も含めて、かなり盛んになっている。こういう状況下だと、憲法について何かを発言することはかなり勇気が必要になる。というのは、いろんな場面で憲法について何かを言うこと自体が政治になっているからだ。

 政治的な議論というのは、政治的な立場を表明することを当然としたり、あるいは、その表明によって生活に影響を与えないような環境を持たない場合、かなり困難である。日本の社会では、政治と生活はハレとケの区別のように区別される文化があり、ケの日常世界の側では、憲法論議は難しい。これは、議論の文化の未成熟というより、政治を非日常とするわれわれの文化の問題でもあろう。

 が、国民投票法案などといいうものが出来てしまうと、否応なく、ケの側に憲法問題というハレが覆い被さってくる。柳田国男の言う「ハレとケの混乱」が起きているといっていいか。

 ある番組で大阪のおばちゃんたちが護憲の漫才をやり、それと戦う形で改憲派の若者が改憲ラップというのをやっていた。すでにハレの政治的立場(合理性を追求する議論の場を越えてただ相手をこちら側の主張に従属させようとする立場)が日常の世界に入り込んでいることを確認した。

 これは、社会の混乱というよりは、国家や社会の理念と無関係であった人びとが、それらに関わろうとすることであって、社会にとっては健全なありかただと見た方がいいだろう。ただし、これは歴史の転換点であって、かなりのリスクが伴っている。その意味ではかなりの覚悟が必要だ。

 国民投票法案が通れば、改正をめぐる駆け引きが、世論形成の駆け引きとなって、ものすごい宣伝合戦が行われるだろう。18歳から投票できることになれば、若年層に対してほとんど刷り込みに近い誘導が行われるに違いない。これらは混乱だが、覚悟とはこれらの混乱を必然的なものとして引き受けることだ。

 ケの日常の側がハレと区別出来なくなるとはどういうことか。いわゆる衆愚政治なのか。確かに、日常の生活の利害や、煽動に抵抗できない情緒的な反応、ということもあるだろうが、日常の側の意志決定は、統一的な政治理念よりは多様化しまとめるのがやっかいである。実はそれが重要であって、その多様さや意志決定のやっかいさを尊重する形でルール化すれば、ある理想的政治理念が陥る狭窄的視野と行動を抑制することが出来る。その意味では、日常の側に托した意志決定は必ずしも、特権的な政治理念の意志決定に劣るものではない。

 もっと重要なのは、自分たちの生存の重要な決定に関与することの興奮と責任を負うということだ。いつもそんな責任を負わされたらたまらないが、憲法改正の投票のときぐらいは、負うのも仕方がないだろう。憲法は、国家という権力にたがをはめその方向性を決める枠組みであるから、日常の側に引き寄せてああでもないこうでもないと言い合うのもいいことだと思う。

 今の国民投票法案がそういった意味での責任の負い方に適するものかどうかはわからない。が、いずれは国民投票をして、憲法に対する意志を一つの証拠として形にしておいた方がいいのは確かだ。

 私の立場だが、戦略的護憲論といったところだ。冷静に考えて、9条を改正して海外に軍隊を合法的に派遣出来るようにすることは、日本にマイナスしかもたらさないだろう。日本の現在の国際的な評価は、軍隊を必要以上に持てないという歯止め(9条)があることであり、歯止めがあるにもかかわらず、何とか苦労して国際貢献に軍隊を出して国際協調にがんばっている、けなげではないか、というものだ。

 これはおおかた一致する日本評価であろう。だから、一発の銃も撃たない自衛隊派遣を政府は強調しているわけで、それがある意味では世界にとって一つの信頼になりえているからだ。世界でも有数の軍隊を持ちながら、海外にもちょこちょこ出兵していながら、歯止めの憲法を持つことで平和国家として評価されている、こんなおいしい、ありがたい立場を何でみすみす放棄するのか、その神経が私にはわからない。

 仮に、歯止めを放棄したら、世界は日本の軍備増強を懸念し、平和国家の評価を低くするだろう。日本の保守派は、中国や北朝鮮の脅威を理由に、軍備を増強するのは目に見えている。当然、中国と日本の軍拡競争が始まる。が、すでに核を保有し中国の経済発展に依存しなければならない日本に勝ち目はないのは当然だ。

 軍事力による安全保障こそが平和や安心を作る、という9条改正論も、今のアメリカを見ればむなしい。巨額の軍事費をつぎ込んで自国の安全保障にやっきとなっている、今のアメリカに、平和や安心はあると言えるだろうか。むしろ、絶えずテロや戦争への脅威に脅えて、自国の安全保障にとって心配な国に戦争を仕掛けたり、絶えず武器の開発と軍備増強に血眼になっている。あれだけの軍備を供えても、得ることの出来たのは、自国を脅かす脅威への絶えざる不安である。

 日本がすぐにアメリカになるとは言わない、だが、歯止めをなくして軍備を強めれば、確実に近づくのは確かだ。アメリカの軍備と不安は、自分を守るのは銃しかないと作り上げた銃社会が、絶えず銃による殺人におびえる不安と同じである。アメリカは、銃が不安を作るという論理を取らない。不安があるから銃が必要だという論理を取る。実は、この論理は、銃を生産する会社の利害を守る論理でもある。

 一度軍備を増強すれば、軍備を減らすのは容易ではない。なぜなら、その軍備によって利益を受けるものは、その軍備が関与しているはずの脅威を、軍備がなければこの脅威によって滅びかねない、と言い立てるからだ。この論理を覆すのはなかなか難しい。

 が、それなら、軍備によって脅威はなくなるかというと決してなくならない。それは論理的に言えるし歴史もそれを証明している。今、日本はこういう悪循環に陥らないための歯止め(9条)を持っている。この歯止めが将来有効かどうかはわからないにしても、現在かなり有効に働いているのは確かだ。その意味で、それを今捨てることはない。アジアとの関係を悪化させ、不必要な警戒論を世界に巻き起こし、進んで軍拡競争に巻き込まれていくのは必至なのに、何故なくしたがるのか、それがわからない。

 たぶん、ある政治勢力の理念が狭窄的な視野に陥っているとしか思えない。軍隊を持つなと言っているわけではない。もう十分持っているしこれで十分だろうということだ。とりあえず歯止めを大事にしといた方が、それを無くしたよりも、他国の脅威を軽減出来るのも確かだ。歯止めがあるから日米安全保障が機能しているという現実を見失ってはならない。歯止めをなくせば、当然他国の脅威に対する核武装論議が起こり、そうすれば日本を守ろうという国際的な安全保障は弱まる。とすれば、日本はさらに軍備を増強して、核を持って、今のアメリカのように絶えざる脅威に神経症的になっていくだろう。どう考えたってそんな国に住むのは嫌である。

脱構築派批判2007/05/04 23:50

 連休は山小屋で過ごしているが、例年の通り教え子のS夫婦が子ども連れで来たりとか、知り合いの家を訪れたりとか、それなりに忙しい。今蓼科湖の桜が満開でとてもきれいである。天気もよくなり、八ヶ岳もよく見える。

 去年取材した歌垣の日本語訳をしようと取りかかったのだが、中国語と格闘する心の準備が出来ないうちに、読もうと持ってきた竹田青嗣『言語的思考へ―脱構築と現象学』(怪書房)を読み始め思わず読破してしまった。二日間、ほとんどこればかり読んでいた。

 現象学は竹田青嗣がいろいろと整理して書いてくれているから、自分で読まないですむ。ありがたいことである。フッサールは何回か読もうと決意したことがあるが、途中で挫折した。私の最初の本『北村透谷の回復』を出したとき、竹田青嗣に帯の文章を頼むことになつていた。ただ、忙しい人なのでかなり遅れるという返事をもらって断念した。今でも残念である。

 現象学的理論による言語理論の本だが、主にヴィトゲンシュタインやデリダの批判になつていて結構面白かった。脱構築は、現代思想を席捲したタームだが、何故、言語理論としてよくないか明らかにしてくれている。ありがたかった。

 デリダの言語理論の核心は、言語の体系や構造とは、実体としての真理や意味あるいは先験的な観念の体系など持っているわけではなく、それ自体つきつめれば、最初の差延(差異)から派生する戯れの秩序であって、それ自体意味を決定できない不完全さそのものである、というものである。要するに、意味の秩序を超越的に設定する従来の哲学や言語理論の前提そのものを抜け出(脱構築)そうとする意図に貫かれた思想である。難しいが、最近の古代文学の研究も実はこのような理論に結構影響されている。実は私だってデリダの理論は結構使わしてもらった。

 竹田はこの思想の必然性を認めながらも、言語理論としては誤解に基づく理論だとして批判する。誤解とは、言語の意味に対する把握が間違っているというのである。脱構築派の意味論は、意味の体系そのものが、それ自体戯れのような不確定性そのものであるから、言語は本質的に意味を構築できない不安定さそのものである、というところに行き着く。が、それなら、何故、言語を論じる当人の理論が、あるいは言語の意味を普段に使っている我々は、その不安や不確定性に惑わされずに、自分の意志やあるいは生そのものを普通のまっとうなものとして成立させ、それを相手に伝えることが可能なのか、この問いには答えられないだろうと竹田は言う。

 言語の意味とは、発語主体と記号としての言語と受け手主体との関係における信憑によって成立するのであって、意味の体系とか(差異の体系としても同じこと)にあるのではない。つまり、空は青い、というとき、その発語主体の実存的な意味での世界(自分や他者あるいは外界)へと身を乗り出す(企投)その前向きの意識が、共有される(普遍化される)ことにおいて初めて、言語は意味として現れることを可能にするというのである。

 空は青いというとき、受け手は、その言葉の発語主体と、世界へ関わろうとする前向きの意識を共有する。その条件のもとで、言語コンテクスト(どのような状況で発語されたか)を理解し、妥当な解釈の元でその言葉の意味を受け取るのである。つまり、そこには確信成立とでも言う信憑構造が成立しているのであり、空は青いという言葉を、何を言っているのかわからない不確定な言葉として受け取って混乱するというようなことはないのである。

 ところが脱構築派は、空は青いという言葉は、それ自体多義的な言葉であって、何も伝えることは出来ないと考える。なぜなら、この言葉の背後には潜在的な様々な解釈可能性があり、この言葉の主体と言葉は断絶している以上(作者の死)、これは言葉の戯れであって、決定不可能性を孕んだ言葉だというのだ。

 竹田は、このような考え方は、言葉は本質的に確信成立によってその意味を意味たらしめているという意味の問題を全く理解していないことから生じると批判する。つまり、どんな言葉もその言葉を言葉たらしめようとするある前向きの姿勢(確信成立)があるのであって、それを切り捨てたとき、言語は、ただの一般的な意味の秩序づけられた集合に過ぎない。そこでは、言葉の意味自体は確信を与えられないから、多様な意義に潜在的には代わられる必然を持ち、従って、言葉の意味は絶えず可変的で決定不可能のような戯れの様相となる。デリダはこのような言葉の意味の本質を捨象したところで言語理論を論じているのであるから、その論理は間違っているというのである。

 デリダら脱構築派は、結局、意味の体系を神のごとくに超越的に設定するヨーロッパの伝統哲学を、結局は神はいない、と反転させただけではないかという。あるいは、脱構築の果てに虚無かもしくは自由があるというのなら、それ自体すでに神のごときものであって、その意味では、脱構築派は、ヨーロッパの伝統的哲学を反転させただけの理論でしかない。このことをついたのが東浩紀の否定神学という脱構築派批判である。竹田はこの否定神学という批判を評価する。つまり、脱構築は、そこには戯れしかないという意味の超越的な神を見出しただけだったということなのだ。伝統的な神学であるヨーロッパ哲学を否定する論理自体が神学になっている、という批判である。

 そうか、脱構築派は今だめなんだ、というのがこの本を読んだ感想。あんまり脱構築していなくてよかった。だが、文学の特に詩表現や、あるいは、時に戯れなどと呼びたくなる言語表象をどう扱うかは、古代文学研究にとっても大事な問題だ。

 竹田の言い方では、ある文章が言語の戯れに見えるのは、そこから確信の構造(私の言い方で言えば発語主体の前向きの姿勢)が捨象されているからだ、ということになる。その捨象のレベルをどのように判断するかが問われるということだ。その文章を読む研究者のレベルなのか、それとも、その文章の書き手においてそれがすでに生じているのか、ということだ。少なくとも、アプリオリに戯れがあると評価して読むと、それはロマン主義的な神学かもしくは脱構築派の否定神学になるおそれがある。

 私は、竹田の理論は納得している。というのも、折口もあるいは時枝の言語論も竹田の現象学、実存的と言ってもいいようだが、その理論にしっくりいくからだ。ただ、最後にそれなら、確信の構造があるとして、それでも戯れが起こる。完全に捨象は出来ないからだ。それは何故か。それが詩的な表出としての意図的な技巧であることを別にすれば、確信の構造と言語の表出の間には「ゆらぎ」があるからだということではないか。

 つまり、確信の構造もそれほど安定したものではないということだ。

    風に従うの逆らうの鯉幟

五月の空俺は自力で泳いでいる