花の下にて酒飲まん2007/04/01 23:53

 今日は友人達との花見。一人は末期癌の療養中。そういうこともあって10人ほどが集まった。狭山丘陵での花見の宴であったが、暖かく満開の花の下で、良い花見であった。

 ただ私は疲れが出たせいか体調不良。酒も飲めずにただ皆の話を聞いているだけであったが。病人の彼が持ってきたワインはおいしかった。なんでももう手に入らないというものだそうだ。来年の花見も彼が参加できればうれしいのだが。

     彼が生きて花の下にて酒飲まん 

 今日、NHK特集で、中国の格差社会を扱った「富人と農工」という番組をやっていた。平等をイデオロギーとする共産主義を目指す党に支配された国が、世界でも例を見ないほどの格差社会を作り出しつつある。皮肉な話である。

 中国が資本主義政策をとっていることは悪いことではない。私は10年中国に行っているが、人々の生活は確実に良くなっているし、表情も明るくなってきた。自信に満ちた顔をしているし、国の経済政策はそんなに間違ってはいないと思う。

 13億の人間を平等に富ませるのは不可能である。限られた富の中で平等を実現するなら、全員を貧しいレベルに落とすしかない。北朝鮮みたいにである。それでも平等ならいいではないか、という考えもあるが、実は、全員平等にならないのが現実だ。ソ連では共産党の幹部は赤い貴族と呼ばれて富を持っていたし、北朝鮮も中国も共産党の幹部は人民を平等に貧しくして自分たちは富を得ている。だから、社会主義は崩壊していった。

 先に豊かになれるものから豊かになれ、という鄧小平の言葉は、それなりに正しいだろう。全員一緒に豊かになれというのは不可能だから。問題は、遅れたものか豊になる機会があるかどうかだ。残念ながら、そう簡単にはないというのも資本主義社会の現実だ。

 13億の人間に中国は最低の生活保障ができるかどうか。それができたら、中国は世界のモデル国家になれる。13億の中国ができたら、人口の少ない他の国家に出来ないわけがない。人口1億の日本では生活保障が崩壊しかかっている。日本も中国に学ぶということになる。

 が、中国には無理だ。経済活動による利潤を13億の人口の最低生活保障にまわすことが出来るほどに発展した資本主義経済なんてこれも不可能なことだ。ならどうすればいいか。答えはないが、生活保障というのは、金の問題だけではなく、地域共同体や、人間関係や、個々の倫理の問題でもある。

 人は身近な人間から助けようとする。知らない人を助けるのは思想や倫理が必要だ。 国家とは知らない人を助けるための一つのシステムでもある。その国家が頼りないとするなら、身近な人から助ける仕組みを充実させるということしかない。むろんそれでも漏れてしまう人を助けるのはボランティアのようなものになろうが、そういう仕組みが社会の隅々に満ちる、それが理想だ、というところにしか答えはないだろう。

 今中国の貧困層を支えているのは、国ではなく、身近なものから助けようとする、家族や親族、村などの小さな共同体の仕組みである。常に動乱の時代だった中国は、このような仕組みだけは強固に保ってきた。この仕組みが崩壊しなければ、中国は格差社会を何とか乗り切れるだろうと思っている。

 むしろ、心配なのが日本だ。日本の方がこの仕組みを失ってしまった。膨大な赤字を抱えた日本は金の力での生活保障も築けず、身近なものから助けるという仕組みもないとすれば、ほんとにこれから大変である。中国の格差社会を冷ややかに見ている場合ではない。

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