英雄伝承2007/02/26 23:12

 昨日今日と原稿書き。何とか24枚ほどを書き上げる。評論なのでそんなに長いものを書く必要はないが、まあまあだと思う。

 山折哲雄の『歌の精神史』を一つのきっかけに「身もだえする抒情」というテーマで書いて見た。万葉の歌の抒情表現について最近あれこれと考えていたが、一応まとめてみたという論だ。ただ、読者は、研究者ではなく、現代短歌の歌人がほとんどだ。それが心配。ちょっと研究の側で書きすぎたかなとは思うが、短歌にとって大事な問題を書いているので面白がってはくれるだろう。

 今日は、日本の古本屋て注文しておいた、古本二冊届いた。『古代の英雄 講座日本の神話6』(有精堂)と『ヤマトタケル』(吉井巌 学生社)だ。「ヤマトタケル」をさっそく150ページほど読んだ。

 いろんな参考文献を読んで分かってきたことは、記紀の英雄伝承というのは、かなり悲劇的で、すっきりしないということだ。ヤマトタケルはその最たるものだろう。スサノオもオオクニヌシも、他力本願で難局を切りぬけたり、ずるいとも言える知恵で何とか相手を倒す。その荒ぶる力で的をなぎ倒す英雄像のイメージはない。何故なのだろう。

 これは、たぶんに、日本というクニの歴史のあり方にかかわっている。記紀の英雄が対峙するのは従わぬ神であり蝦夷である。が、実は、それらの敵は、クニの外部に位置する異族ではない。あくまでも内部のなかのまつろわぬものたちなのである。というのは、日本は、高天原という外部をもたないクニの上部構造を設定してしまったために、従わぬものは、常に国津神かその亜流なのである。その意味では、まったくの想定外の異族は出てこない。

 とすれば、それらを退治するのは王の役割ではない。敵は、自分の影のような写し絵でもある。所詮みんな国津神みたいなものたちなのだからだ。ある意味では、古い自分であるし、あるいはケガレのような自分と闘うようなものだ。とすれば、そこに立ち向かうのは、敵とどこか似たものでなくてはならない。荒ぶるスサノオは八岐大蛇と似ており、オオクニヌシは八十神と兄弟であり、ヤマトタケルは、クマソと同じ荒ぶる性格を持つ。

 日本の英雄伝承が、韓国や中国と闘うという話はない。神功皇后は巫女的な働きが描かれるが、韓国遠征で実際に闘った描写はない。つまり本当の外部と闘うという意味での英雄ではないということだ。そのことと、悲劇性や何となくせこさが目立つその働きぶりとは関わるだろう。

 といったことを今考えている。
 
     汁の中蕗の薹のみ浮かんでる

     春を歩けば朔太郎の夕暮れ