味わう時間2007/02/16 01:15

今日は奥さんが遅いので夕方は早めに帰りチビの散歩。ついでに、コンビニで弁当とサラダを買って食べる。私は料理を作るのが出来ないと言うよりは面倒なので、作らない。作ろうと思えば作る自信はあるが(強がり言うのはよそう)、あまり食にこだわらないので、自分の食事などコンビニの弁当で充分なのだ。

 そんなにまずくはないし、栄養のバランスさえ取れていればコンビニの弁当で何の不満もない。生まれ育ちが貧しかったせいか、食に感動するという経験がほとんどなく、生きるために食事をするという程度で生きてきたことが、こういう嗜好を作ってしまったのだろう。こういうのは今更変えられるものではない。

 中国に行って、雲南省の村に入って、農家の食事を食べる時があるが、さすがに食べられないときもある。それは基本的に生活文化や食習慣の違いがもろに現れるときだ。調査にはつきもので、私は経験はないが、E君なんか、生の豚肉が出たときには死んでもいいやという気持ちで食べたという。彼は、実際、寄生虫でおかしくなっている村人を見ているのである。

 私は味にうるさくはないが、さすがに、味付けしていない硬い肉をそのまま出されたときは食べられなかった。イ族の調査の時だったが。文化の違いというよりは、過酷な環境で生き抜くことの凄さを、そういう食事で思い知らされるのだが、やはり食べられない時は食べられない。

 そういうことを除けば、中国での料理はそんなに嫌ではない。油がとにかく多いので、油を取りすぎないように注意するくらいで、向こうの食に順応はしている。ただ、どんなに避けてもやはりあの油にはまいる。最近、油にかなり弱くなってきた。何であんなに油を使って料理するのか、時々辟易するのは確かだ。

 うまいものを食べるために努力を惜しまないという気持ちが分からない私は、きっとそれこそ人生を楽しんでいないというこになろうか。そうなのかもしれないが、そこに費やさないでいるエネルギーを別の何かに使っているのだから、損をしているわけではない。

 しかし、やはり、余裕のない生き方をしているのではないかという気はする。これはもう根っからの性格の問題かも知れない。今更遅いが、ゆっくりと何かを味わうような機会を持つことも必要だろう。実は、山小屋に陶芸セットを一式揃えてある。陶芸でもゆっくりやろうと揃えたのだが、実は一度ろくろをまわしたきりで全く使っていない。時間がないわけではないのだが、そんな時間があれば本を読まなくてはという強迫観念がまだ抜けきらないのだ。これは業とでもよぶべきものだろうか。

     コンビニの棚に並ぶや菠薐草