晴と褻2007/02/14 00:28

  奥さんが風邪でダウンしたのでこの三日ほどチビとの散歩を朝や夕にこなした。少しは運動になったかと思う。いつも今頃は厳しい冬の北風に顔をかくしながら散歩したものだが、暖かくてまるで春のようである。

 昨日は一日考え事。本を読むと眠くなるので考え事で過ごす。考えるのも仕事のうちだ。今日は、会議日で朝から出校。行けば仕事はある。忙しく働き、七時頃帰る。奥さんはだいぶ回復したらしく、夕方のチビの散歩はできたようだ。

 万葉の「おもふ」や「こひ」といった心情語について今考えている。これらは、呪術的な作用を持った言葉だと解釈されてきた。それはそれでいいのだが、心情語というレベルで見るとどうなのか。

 心情語とは、感情の揺れ動きを表出するということだが、その場合の感情の揺れ動きというのは、呪術的な動きとどう違うのか。同じことを別のとらえかで言っているに過ぎないのか。

 そうではないと思う。呪術的な働きと言うことをつきつめていくと、それは「晴」の行為(表出)になるはずだ。「晴」とは共同的な行為ということでもある。その場合、表出行為自体が儀礼化され、それ以外の表出行為を不必要化する。

 とすると万葉のそれらの言葉が使われている歌は、儀礼化というレベルにあるのかというとそうではないだろう。あれだけの沢山の歌が歌われているという事実は、一つの様式化された表現では満足できないということを意味している。

 ということは、万葉の歌のレベルにおける「おもふ」や「こひ」は私性のレベルにあると考えた方がいい。が、呪術的な意味合いももっているには違いない。とすれば、私性という「褻」と「晴」とがいわば混じり合った状態として、これらの言葉はあるということになる。

 中国少数民族の歌垣の歌を調査しながら、歌というのは、日常とあの世との境界に位置するものという思いを深くしたが、それが万葉の言葉にも表れているのだと思いたい。
  
       山茱萸の花を遠くにぼんやりと

       早春の萌えいづる気分検索し