保守主義革命なのか…2007/01/10 00:33

 今日は本格的な初仕事。でも難問山積で頭が疲れました。帰ってきて、授業の準備やら、論文の準備やらと思っていたのですが、ついつい、時評の文章を書いてしまいました。これも評論家の業みたいなものでしょうか。

 ワーキングプアという言葉がかなり有名になった。仕事を持っていても生活保護以下の収入しかない層のことである。この層が、バブルの崩壊した頃から社会に出て行った30歳前後に集中していて、その層をロストジェネレーションというらしい。

 NHKで先日特集番組をやっていたが、今週の週刊朝日で、小倉千加子が、ここに出演してもっともらしいことを言っていた大学教授を批判していた。どうやら、ワーキングプアを生み出している側に大学教授は属しているらしく、お前にワーキングプアについて語る資格はない、ということらしい。それならあんたにあるのか、ということになるが、それはおいといて、大学に属している私としても、こころ穏やかならざる文章ではあった。

 こういう社会的な貧困や格差を論じる時に、論じる個人の置かれた立場を問題にするのは間違ってはいない。だが、論理というのは発せられた立場がどうあろうと、正しいか違うかという判断が出来るものだ。だから論理なのであるし、だから、人は論理に従うことができるのだ。ただ、問題はその論理が脳天気なときにその脳天気さの原因として、その論理の発する場所が踏まえられていないということはよくあることである。そういうことで大学教授が批判されるなら、それは正しい。ただ、大学教授が属している場ゆえに発言の資格を最初から持たないというのは、間違いである。

 別にたいした文章じゃないのであまりこだわることはないのであるが、ただ、気になったのは、大学という産業が資格を乱発して若者に必要のない金を使わせて儲けているという批判だった。この批判は当たっている面もあるし当たっていない面もある。ただ、大学に幻想を抱きすぎてるが故の批判である気がする。成熟した資本主義は、モノではなくサービスを売る。それは大学だって同じなのである。ものつくりの知識ではなく、サービスのための知識を売る。サービスには物としての製品と違って品質の基準がない。だから、その基準を社会の側で作ろうとする。それが資格である。

 言い換えれば、無形のサービスがモノ化してきたということである。大学がその資格を獲得する場になってきているのは、社会人として必要な知識を獲得する場所として当然のことで、そのことをもって大学を批判するのは、どこかに大学というのは高尚な教養を学ぶべきだという幻想があるからである。その資格が役にたっているかどうかは、市場原理が決める。役に立っていなければ大学は潰れる。そういうことである。つまり、大学も必死なのである。だから、大学教授が偉そうなことをいったからといって、偉いわけじゃない。当たり障りのない見解を述べただけである。

 大学が潰れたら、教員はほとんど潰しがきかないから再就職は無理である。とすれば、大学教授だって、路上生活者に絶対ならないという保証なんてないのである。そういう時代になりつつあるのである。それを誰もいい社会と思わないのは当然で、何とかしろよといいたくなるのは、大学教授であろうと、魚屋のにいちゃんであろうと同じだろう。

 それにしても格差社会には困ったものである。原因は明確である。グローバリズム資本主義によって、安い労働力が日本の労働市場に流入したからである。むろん、それは労働移民だけをさすわけではない。労働市場自体が国内に限定されなくなることで、埼玉県の川越で働く人間と、インドで働く人間とが仕事の取り合いをしているということが現実に起こっているということである。

 それなら解決策はあるのか。基本的にはこのグローバリズムとは違う原理の経済構造にしない限りは無理である。が、現実には、国家や地域や生活というのは、グローバリズムではない。だから、ある程度の抑制は働いている。国家は税制によって、世界化した企業の利益を国民に再分配することが可能だ。その税金によってセーフティネットを作ることも出来る。

 地域経済は、相互扶助的な循環構造を持つ。地域が地元の生産物を消費することで地域循環型のささやかではあるが地域経済が成り立つだろう。生活という領域もまた、相互扶助的なネットワークを作り、仕事のない人を面倒見るシステムを作ることが出来るし、また実際に作られている。

 経済界は、法人税を増やすなら企業が日本から逃げ出し、国内産業は空洞化すると脅す。が、実際はそうはならないはずだ。地域や生活領域のない企業などないからで、それを捨てることは、何故企業で経済活動をするのかということ自身の根拠を崩すことになる。そこまで徹底して虚無的に経済活動できる企業があるとも思われないし、あるとしたら早くこの世から出て行ったほうがよい。

 要するに、経済的な領域では意識的に保守的にならざるを得ない、というのが、格差社会への対応策である。それは、地域や生活領域にある、相互扶助的な仕組みを見直すことであり、その仕組みを生かした税制などの国家の仕組みを作ることだ。

 安倍首相は、理念は保守的なのに、経済政策は保守的ではない。むしろ、個人よりも企業の利益を優先させている。その意味では、現代の革命は、グローバリズムに立ち向かう保守主義ということになろう。何とも時代は変わったということか。

 安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」で、イスラム思想や、戦前の北一輝らの右翼革命に注目するのも、中沢新一が、反資本主義としてやはりイスラムやアニミズムに力を入れるのも、それなりの必然性はあるということである。

   仕事始め懸案事項を先送り

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